礼拝メッセージより
処女降誕
神学校の先生がこんなことを書いていた。
昔通っていた大きな教会で運動会か何かをした時に、二つのグループを作って競技することになった。そしてそのグループ分けをする時にそこの牧師が、「処女降誕を信じる人はこちら、信じない人はこちら」と言って分けた。それまで聖書は一字一句全部真実だと思っていたのでびっくりしたというようなことが書いてあった。
マリア
今日の箇所ではイエスの母となったマリアが登場する。
マリアは「ナザレというガリラヤの町」に住んでいた。死海の北にあるガリラヤ湖の近くで、田舎の町だったようだ。マリアは田舎の名もない少女だった。
そしてマリアはヨセフの許嫁であった。このヨセフはダビデの家系であった。ユダヤ人たちは救い主はダビデの家系に生まれると考えていたそうだ。しかしイエスはヨセフの子としてではなく、聖霊によってみごもったと聖書は記している。
天使ガブリエルがマリアに「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と言う。マリアはこれを聞いて戸惑った。
そこで天使は「恐れることはない」と告げる。そして「あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。」と告げた。
マリアは、どうしてそのようなことがあるのか、結婚もまだなのに、と答える。天使はマリアに、親類のエリサベトも妊娠している、神に出来ないことは何一つないと答えた。そしてマリアはエリサベトに会いに行った、という話しだ。
重大事
当時は十代の半ばで結婚したそうだ。その少し前に許嫁になるのだろうけれど、正式に結婚してない段階で妊娠するということは一大事だったに違いない。
マリアにとって大いに困った話しだ。最近は授かり婚とか言うようになったけれど、少し前まではできちゃった婚と言われていて、現代でも結婚前の妊娠はちょっと恥ずかしいことのように言われる。当時は許嫁とは言え、結婚する前の女性が妊娠することは当時は今よりももっともっと大変だったようだ。そんな状況の中にイエスは生まれた、とルカは伝えている。
マリアは、聖霊の働きなんだからと言われ、お言葉どおりこの身になりますようにと答えたと書かれているけれど、実際にそんなことが起こったらとても納得できるような状況ではないだろうと思う。
クリスマスの出来事は実際にはあまりはっきりとはしない。福音書の中で一番始めにまとめられたと思われるマルコによる福音書にはイエス誕生の出来事は何も書かれていない。マタイによる福音書には書かれているけれど、ルカの話しとは大分違う。マルコによる福音書が纏められた後にイエス誕生の物語が出来上がってきたのだろうと思う。
当時は偉大な人物は処女から生まれると伝えられていることがよくあったそうだ。そう言われている人は300人位いると聞いたことがある。そしてルカも処女から生まれたことを殊更強調するわけでもない。それよりも、名もない町の年端もいかないひとりの若い女性から生まれたということを伝えたいように思う。
今日のすぐ前のところんは洗礼者のヨハネの話しが出てくる。ヨハネを身籠もったエリサベトは年を取ってからの妊娠であり、逆にマリアは早すぎる妊娠だった。世間からエリサベトは、あんな年になって妊娠するなんてと言われ、逆にマリアは結婚もしてないのに妊娠するなんて、と言われる、そんな状況に立たされたというわけだ。正式に結婚してすぐに妊娠したのならば誰からも陰口をたたかれることもない。
マリアに対する世間の風当たりは当然強く、後ろ指を指されるようになることが十分に考えられる。許嫁のヨセフがどう思うのかも分からない、婚約も解消されることも十分考えられる。下手をすると石打の刑に処せられるかもしれない、マリアはそんな風にとても負いきれないような危機的な事態に立たされていることになる。
注目
しかし神はそんな名もない力もない普通の女性マリアに注目しているとルカは告げている。そしてルカはマリアを通して、同じように無力な私たちを神は注目しているということを伝えているのだろう。
世間の常識から外れたところでいきていくしかない、思わぬ出来事にうろたえながら、そして陰口をたたかれるかもしれないと恐れながら心配しながら生きていくしかない、そんな状況に経たされている人達を神は見捨ててはいない、むしろそんな人達を注目しているんだということをルカは伝えようとしているのではないかと思う。
聖書のいろいろな出来事の中で、本当にそんなことがあるんだろうか、と思うことがいっぱいある。いろんな奇跡のことや、えらく信仰深い話があったりする。しかしそれ以上に信じられないと思うことは、神がわたしの事を特別に見ているということ、一人一人を大事に思っているということだ。
「どうしてそんなことが」と思う。どうして神がいちいち私ひとりのために、特別に配慮なんかするもんか。こんなだらしない、駄目な私のことなんかそんなに思ってる訳がないと思う。
「ボンヘファーの祈り」という言葉がある。
『マリアとは、人々から知られることのない、注目されることのない大工の妻、職人の妻である。マリアとは、無名で卑しいということにおいてのみ神から注目され、救い主の母となるようにと選ばれた者である。マリアが選ばれたのは、何らかの人間的な美徳によるのではなく、確かな、偉大な信仰によるのでもなく、また謙虚さのためでもない。マリアが選ばれたのは、もっぱら、神の恵み深い意志が、卑しいもの、無名の者、低い者をこそ愛し、選び、偉大にしようとしたからである。
神は人間の卑しさを恥とは思わず、人間のただ中に入り、道具としてひとりの人間を選び、最も奇跡が起こりそうもないところで奇跡をなした・・・そしてその結果、生まれたのが飼葉桶のキリストである。人々が「失われた」と言うところで、神は「見いだした」と言い、人々が「裁かれた」と言うところで、神は「救われた」と言い、人々が「否」というところで、神は「然り」と言う。人々がなげやりな気持や、高慢から、目をそらせるようなところで、神は他のどこにもない愛のこもった目を向けるのである。』
ボンヘッファー 著 (村椿嘉信:訳)
「主のよき力に守られて」 新教出版社
どうして
どうしてそんなことがありえましょう、とマリアは言ったと書かれている。それはルカの言葉でもあり、また私たちの言葉でもある。
神があなたに注目している、あなたの上に神の業が及び、神の力によってあなたは大きなことをする、なんて言われても、私たちもどうしてそんなことがと思ってしまうのではないだろうか。
詳しいことは分からない、けれども片隅に生きる、無力な無名な一人の少女であるこのマリアからイエスが生まれたことは事実であるようだ。
立派にはなれない、むしろ落ちこぼれでしかない、世間の常識に合わせて生きていくこと疲れ切っている、生きていくだけで精一杯、そんな私たちだ。
そしてどうしてこんな病気になるのか、どうしてこんな怪我をしてしまうのか、どうして何もかも上手くいかないのか、どうしてこんな自分なのか、そんなことばかり思ってしまう。
けれども神は小さな無力なあなたに注目している、社会から落ちこぼれてこれからどうやっていけばいいのかも分からない、そんな片隅に生きるあなたのすぐそばにイエスは生まれた、片隅に生きるあなたのことを神は見ている、そこに注目している、そのことをルカは伝えたかったのではないかと思う。
どうしてそんなことが、と思ってしまう。本当なんだろうかと思ってしまう。
しかしボンヘッファーが言うように『人々が「失われた」と言うところで、神は「見いだした」と言い、人々が「裁かれた」と言うところで、神は「救われた」と言い、人々が「否」というところで、神は「然り」と言う。』のだ。
私たちの神はそんな神なのだ。イエス・キリストはそんな片隅に生きる私たちのすぐそばに生まれた。そして私たちのことを大切に思い、心配している、そしてずっと私たちと一緒にいてくれている。聖書はそのことを伝えているのだと思う。