礼拝メッセージより
時代
バビロン捕囚から人々が帰還し、エルサレム神殿もどうにか再建し、すでに100年程が経っている。しかし相変わらずペルシャの支配下にある。神殿を再建し律法を守り献げ物をすることで、神が自分達を祝福してくれるはずだ、ふたたび自分達の国を強い国へと変えてくれるはずだ、そんな期待を持っていた。なのに、なかなか思うようにいかない現実に疲れていた、諦めのムードが漂っていた、そんな時代だったようだ。
神を信じて掟を守っても何の益もない、信じていない人達の方がよっぽど良い生活をしている、しかも悪いことをしても不正をしてもバチがあたるわけでもなく裁かれるわけでもない。そんな風に思うようになっていたのだろう。
そのとき
16節では、「そのとき、主を畏れ敬う者たちが互いに語り合った」と書いてある。何を語り合ったんだろうかと思って見るけれど、何を語り合ったのか、その内容がどんなことだったのかが書かれていないみたいで変だなと思った。
ちょっと面倒な話しになるけれど、16節の『そのとき』というのを、旧約聖書のギリシャ語訳である七十人訳聖書というのがあって、それでは『このことを』と読み替えているそうで、もともとは『このことを』だったのではないかと主張しているそうだ。主を畏れ敬う人達が神に仕えることはむなしいというのはおかしいと考えて『そのとき』に変えたのではないかという説だそうだ。
『このことを』が元々であったとすると、14-15節にあるように、主を畏れ敬う人達が神に仕えることはむなしい、という話しをしたということになる。
確かに敬虔に神を信じる人が、神に仕えることはむなしいなんていう話しをするというのはおかしいという気持ちも分かる。でも、僕は自分が全然敬虔な人間じゃないからそう思うのかもしれないけれど、人間なんだから、信じていたって何のいいこともないじゃないか、いっそ信じない方が楽だし得なんじゃないかと思うことだってあるのが当たり前なんじゃないかと思う。
聞かれた
そうだとすると、主が耳を傾けて聞かれたのは、神に仕えることはむなしい、神の戒めを守っても何の益もない、ということを聞かれたということになる。
教会でそんなこと言ったら怒られそうで口をつぐんでしまうような話しだなと思う。でもそれは実は誰もが心の奥に持っている本当の気持ちなんじゃないかと思う。神はどうして自分を助けてくれないのか、どうして見放したのか、どうして信じない者を祝福するのか、そんな疑いと嘆きを誰もが心の底に抱えているのではないかと思う。
しかしそんな心の奥底の思いを神は聞いている、聞いてくれているということになる。
宝
しかも備えているその日には、彼らはわたしにとって宝となる、人が自分に仕える子を憐れむように憐れむ、と言うのだ。宝だなんて恐れ多いというか勿体ないというか。
信じてる?
本当に神を信じてるんだろうかと思う。信じたからってそんないいことなんてないよなと思う。日曜日はどこかに遊びに行った方が楽しいじゃないかとか、献金するお金があればあれもこれも買えるのにななんて思う。こんなんで神を信じてると言えるんだろうかと思う。
19節にはその日がくると言われていて、やがて預言者エリヤを遣わすなんてことが言われている。エリヤは旧約聖書の列王記に出てくる預言者で、火の馬に引かれた火の戦車によって嵐の中を天に上って行ったと書かれている人だ。当時はそのエリヤが再び天からやってくるという考えがあったようで、新約聖書のイエスの十字架の場面でもエリヤを呼んでいるという話しが出てくる。
でも本当に終わりの日にはそんなことが起こるのかどうか分からないし、そんな日が本当に来るんだろうかと思う。
あるいはまた、何があっても神がいるから大丈夫だとか、信じればなんとかなる、なんて全然言えない不信仰者だ。明日のことも明後日のことも心配ばかりしているし、小さな失敗ですぐに落ち込むし、ちっちゃなことですぐにうろたえてしまう。
神って何なんだろう、神は一体どこにいるんだろう、と思うこともしょっちゅうだし、これで信じているなんて言えるんだろうかと思う。
でもこんな自分を宝だと言われているとしたらすごいなと思う。こんな自分を憐れむと言われているとしたら嬉しいなと思う。
神を信じるってのは、お前は宝だ、お前が大事だ、お前が大切だ、そんな声を聞いていくことなんじゃないのかなという気がしている。
聖書の神を信じるってのは、私たちが神に必死に呼びかけたり、必死に縋り付くことじゃなくて、神が私たちを握りしめていてくれていること、私たちの愚痴も嘆きも不信仰も全部ひっくるめて、神が私たちを子供のように大事に思ってくれていること、そのことをその事実を受け止めることなんじゃないのかなと思う。