礼拝メッセージより
時代
紀元前539年以降、補囚から帰還した人々はエルサレム神殿を進めた。そして紀元前515年には神殿が完成し、これから自分達の栄光の歴史が又始まる、と期待されていたようだ。
綺麗な神殿が完成した。神のここに住み、自分達に恵みを与えてくれるはずだ。敵をやっつけて強い国にしてくれて、豊かな実りを与えてくれ、幸せな生活を与えてくれるだろう、そんな明るい未来を夢見ていたようだ。
しかし現実には相変わらずペルシャの支配下にあり、相変わらず干ばつになったり、イナゴが大量に発生したりして凶作が続いたこともあったようで、神殿ができたからと言っても暮らしも良くならず、希望が失望に代わり、諦めへと近づいていたらしい。
神殿で犠牲を献げているのにどうして幸せになれないのか、神はそこにいるのか、神は自分達を見放したのか、神は悪人の方を大事にするのか、そんなことまで思うようになったようだ。
そこで神の言葉を聞くこと、神の命令を忠実に守ることがだんだんと疎かになっていったらしい。本来傷のない動物を献げるべきなのに、傷があるものにしたり、異教徒の人と結婚してはいけないと言われていても守らなかったり、簡単に離婚したり、十分の一の献げ物を守らなかったりするようになったようだ。
そんな状態が続いていた紀元前400年頃にこのマラキ書が書かれたそうだ。
何が?
マラキは、そんな状態であることが主を疲れさせていると告げる。しかもそのことに民も祭司も気付いていないというのだ。悪を行うものはすべて主の目に良しとされるとか、主は彼らを喜ばれるとか、裁きの神はどこにおられるのかなどと言っている、その事が主を疲れさせていると言うのだ。
人のことは言えないなとは思う。神に従っているのにどうしてこんなに苦しいのか、神を信じているのにどうしてこんなに貧しいのか、神の祝福は一体どこにあるのか、神は悪人の方を喜ばれるのか、正直者がバカを見るのをそのまま放っておくのか、そんなことをよく考える。この当時のユダヤ人たちもそんな風に思ってたのかな。
使者
わたしは使者を送る、という主の言葉をマラキは告げる。この使者は精錬する者の火、洗う者の灰汁と言われていて、厳しい使者のようだけれど、その使者が世の中を整えるという。具体的には3:5にあるように、「呪術を行う者、姦淫する者、偽って誓う者、雇い人の賃金を不正に奪う者、寡婦、孤児、寄留者を苦しめる者、わたしを恐れぬ者ら」を告発するという。そして再び神に喜ばれる献げ物を献げるようになるという。
挑戦状
そして主は私に立ち帰れと言う。それは具体的には十分の一の献げ物においてだという。十分の一を献げてわたしを試してみよ、と言うわけだ。
なんだかすごい言い方だなと思う。
収穫物は神から与えられた土地で得られたものであるから、その十分の一を神に返す、神殿に献げるというのは古代オリエントでは広く行われていたそうだ。ユダヤ人たちも同じように十分の一を神に献げ、その献げ物がレビ人や孤児や寡婦の生活を支えることにもなっていた。(『あなたの町の中に住むレビ人を見捨ててはならない。レビ人にはあなたのうちに嗣業の割り当てがないからである。三年目ごとに、その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えておき、あなたのうちに嗣業の割り当てのないレビ人や、町の中にいる寄留者、孤児、寡婦がそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい。そうすれば、あなたの行うすべての手の業について、あなたの神、主はあなたを祝福するであろう。』申命記14章27-29節)
そんな考えが今の教会の献金にも繋がっているのかな。献金は神に献げるものであるけれど、目に見えるところではその献金が教会の活動費、運営費となっている。
ところで昔通っていた教会で、では十分の一の基となるものは何か、つまり何の十分の一かという話しが出たことがあった。議論した訳ではなくて、ある人が私は収入の十分の一を献金することにしている、そしてその収入は手取りではなくて税金と社会保険とかを引かれる前の収入の十分の一にしている、何よりも先に神に献げたいというような話しをしていた人がいて、何かすごいなあというか、格好いいなあと思ったことがあった。
マラキ書で十分の一を献げてみよと言われているのは、絶対十分の一じゃないといけないとか、税金を引かれる前の十分の一じゃないといけないとか、それだったら合格とかいうことではないと思う。忠実に規定を守る、忠実に神の命令を守るということでもあるのかもしれないけれど、それよりも神に信頼する、神に頼るという気持ちを持つことと、そして献げることで誰かを支えようとする、自分以外の誰かを支えようとする、そんな気持ちを持ちなさいということでもあるんじゃないかと思う。そんな気持ちの表れとしての献げ物なんじゃないかなと思う。
招待状
十分の一を献げて私を試してみよというのは昔からよく聞いていて、この言葉ばかりがずっと気になっていて、何だか挑戦状を叩きつけられたような気分でいた。
でもよく見ると、というかよく見なくてもすぐ後に「必ず、わたしはあなたたちのために、天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう」と言われている。
本当にそうなのかな、本当にそうしてくれるのかな、そうしてくれるなら献げてもいいけど、そんな確証も確信もないしと思っていた。
これだけ出したらそれ以上戻ってくるからというような、どこかに投資したら利益があがるという話しのような気でいた。儲かるのにどうしてやらないんだよと言われているような気でいた。
でも案外そうじゃないんじゃないかなという気がしてきている。十分の一を献げることで、神から与えられる祝福とはお金とは限らない、目に見える豊かさとは限らないんじゃないかという気がしている。
誰かと共に生きようとすることで、誰かを助けようとするというか支えようとすることで与えられる祝福というのはお金では買えないものだろうなと思う。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい、という言葉があるけれど、共に泣き共に笑えることの喜びはお金では買えない。
十分の一を献げよというのは、愛する思い、愛される思い、そんなことを経験して欲しいという招きなのではないか、そんな気がしてきている。やれるもんならやってみろ、そうしたら恵みを与えてやるという挑戦状ではなくて、隣人との繋がりを持つことの幸せを経験するように、そういう世界で生きるようにと言う招きではないか、つまり十分の一を献げよというのは実は招待状じゃないのかなという気がしてきている。
また十分の一を献げなさいということは、お金に執着してしまう、お金に縛られる、何でもお金をモノサシにして計ってしまう、そんな私たちをお金の呪縛から解き放つための、つまり献げることで誰かを助けると同時に、献げる自分自身を解放するための招きでもあるような気もしている。
聖書って、神からのいろんな命令が書かれているようでもあるけれど、案外神から私たちへの招待状、私たちを解放し自由にし、生き生きと生きさせるための招待状なのではないかな。