礼拝メッセージより
ゼカリヤ書
ゼカリヤ書は1章から8章までの第一部と、9章から14章までの第二部になっている。前半を第一ゼカリヤ、後半を第二ゼカリヤなんて言い方もすることもあるそうだ。
第一部ではバビロン捕囚から帰ってきた民がエルサレムの神殿を再建するという時代のことがらが書かれている。ユダヤ人たちは神殿の再建とともに、バビロンに補囚されたヨヤキン王の孫であり、総督であったゼルバベルを王に擁立しようとするが、これは当時支配されていたペルシャから独立を図るものと見なされてゼルバベルは総督を失脚させられ、王制を復活させようとする企みは失敗する。
ペルシャは、征服した国の宗教を尊重し積極的に援助したが、政治活動は決して許さなかった。そんなこともありつつも、ユダヤ人たちは何度も挫折しかけながらも神殿を再建する。
ユダヤ人たちは神殿を中心として、その後はペルシャの忠実な属州の一員として、ペルシャ帝国が繁栄している期間は政治的に平和な時代を過ごしたようだ。
その後、中近東を200年程にわたり支配したペルシャ帝国も弱体してくる。そしてダレイオス3世は、紀元前333年イッソスの戦いでマケドニアのアレキサンドロ大王に敗れてしまう。
破竹の勢いのアレキサンドロ軍は南下してエジプトに向かう。エルサレム神殿を中心とするユダヤ教団は、ペルシャの庇護の下に繁栄していた。なのでこのアレキサンドロ軍の進攻のよって、今保たれている秩序が乱れるのではないかという不安を感じてもいたようだ。しかし一方ではこの機会に独立できるのはというような期待を持つものもいたらしい。
ペルシャ帝国の役人と、それと手を組むエルサレム神殿の祭司達に押さえつけられていたイザヤの流れを引き継ぐゼカリヤたちは、アレキサンドロ大王軍を解放軍として期待した。
当時エルサレム神殿は、大祭司を頂点とした宗教・経済センターとして、富裕な在外ユダヤ人の寄金で繁栄していたが、その内実は、指導層は腐敗し大祭司の権力を巡っての内紛が絶えなかったそうだ。
そこでゼカリヤたちはアレキサンドロ大王こそ自分たちを解放してくれるメシアである、つまり主なる神がアレキサンドロ大王を遣わして自分たちを解放してくれるのだ、と期待したこともあったようだ。今日の聖書に出てくる「あなたの王」とは直接的にはアレクサンドロ大王のことを指しているようだ。アレクサンドロ大王が自分たちを開放してくれる、現状を打破してくれると期待したようだ。
しかしアレクサンドロ大王は、エジプトへ遠征する途中にエルサレムを通過し、エジプトでアレクサンドロスという町を作り、そこからインドへ向かう途中にもエルサレムを通過しただけて、ゼカリヤたちが期待するような改革もなかったらしい。
王
ユダヤの国は、南エジプト、北のアッシリア、東のバビロニアやペルシャなどといった周りの大国に挟まれる交通の要衝でもあり、それらの大国に侵略されたり補囚されたりという、周りの国に翻弄されることが度々であった。
だからこそ、やがてはまた、かつてのダビデのような偉大な王が現れて、自分たちの国を強い国にしてくれることを待ち望んでいたらしい。外国の王でさえ、自分たちを解放してくれる、救ってくれるメシアなのではないか、救い主なのではないかという期待を持つことも度々あったようだ。
かつて第一ゼカリヤは補囚から帰国したゼルバベルがメシアであると期待した。ゼルバベルはペルシャへの反逆者として処刑されてしまう。イザヤ書53章の「苦難のしもべ」はそのゼルバベルへの思いを歌ったものだそうだ。
ユダヤ人たちはやがてメシアがやってきて自分達を解放してくれるという思いをずっと持ち続けているようだ。そして自分達の敵をやっつけてくれる者に対して、この人こそメシアだという思いを持ってきたような気がする。しかしそれはどれもこれも期待はずれだったようだ。
ゼカリヤ書9章9-10節でも、やがて自分たちを解放し救いだしてくれる王が、メシアが、救い主がやってくるという希望を語っている。ところがここで言われている王は、ろばに乗ってくると言われている。しかもその時神は、エフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ、なんてことを言っている。ユダヤの地から兵器をなくす、戦争の道具をなくすというわけだ。
ゼカリヤは新しい王はろばに乗ってくると言った。本当のメシアは戦争に使う馬に乗って力を持って支配する王ではない、そうではなく、庶民が仕事に使うろばにのってやってくると言うのだ。権力を持って民を上から押さえつけるのではなく、民と同じ所にやってくると言っているようだ。
ゼカリヤはどうしてこんなことが言えたんだろうか。不思議な気がする。それこそ神に示されたんだろうか。
弱さ
トゥルニエという人がこんなことを書いているそうだ。「人間の本当の価値は人がどれだけ近いかにある。現在人類が必要としているものに、親切、安心、情緒、感受性、美、直感といった属性がある。ところが今日それらは「弱い」というレッテルの下に捨て去られている。」
そんな弱さを通して、相手との近さを通じて感じるつながり、親切とか安心とか思いやりとか、そんなものを感じ取れること、つまり誰かを愛し愛されること、そんなものこそが私たちにとって必要な、大事なことなのだと思う。
福音書を書いたマタイは、イエスがエルサレムにろばに乗って入城した、そのときにゼカリヤ書の言葉が成就した、と告げている。
「シオンの娘に次げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろば子、子ろばに乗って。』」(マタイ21:5)。
イエスはまさに私たちにとって一番大切なもの、本当に必要なものが何なのを教えてくれた、そして大切な愛を届けてくれたのだと思う。
誰を
ユダヤ人たちは力を持った王を期待した。敵をやっつけてくれる者こそメシアに違いないと期待した。
私たちも案外そんなメシアを期待しているのではないかと思う。自分の周りの状況を一気に変えてくれることを神に期待して祈ることが多い。圧倒的な力でいろんなものを変えて欲しいと願っている。そして自分にもそんな力を与えて欲しいと願っている。
しかしゼカリヤは、本当に大事なものは力ではないと伝えているのではないだろうか。そしてイエスは私たちに愛を届けてくれたのではないかと思う。神の愛を私たちに教えてくれた。それこそが本物のメシア、本物の救い主だと新約聖書は伝えている。
イエスとは違う、別のメシアを期待しているのかもしれないと思う。奇跡的な力を発揮して教会を大きくして、自分を立派な強い人間にしてくれることを期待している。そしてそうならない現実を嘆いてばかりいる。
ユダヤ人は見当違いなメシアを期待していると悪口ばかり言ってきたけれど、とてもユダヤ人を批判できない、自分でもイエスに見当違いなことを期待しているなあと思った。
本当のメシアであるイエスの本当の姿をちゃんと見ていかねば、その声をちゃんと聞いていかねばと思う。