礼拝メッセージより
ぼろぼろ
そういえば最近夜更かしができなくなってきたなと思う。そして睡眠不足をするとすごく身体に応える。歳を取ると体力はなくなるし、気力も集中力もなくなるのかな。ただの怠慢なだけの言い訳なのかもしれないという気もするけれど。
週報のコラムもネタを絞り出し尽くして、ぼろぼろの絞りかすになってしまったような気持ちになっている。
時代
紀元前587年頃、新バビロニア王国によって南ユダ王国は滅亡され、多くの住民がバビロンに強制的に移住させられた。バビロン捕囚といわれるものだ。その新バビロニア王国はペルシアによって滅ぼされる。ペルシアは現在のイランからイラクやトルコ、そしてエジプトまでを支配する大きな国となったが、支配する民族の宗教や文化、生活習慣についても寛容であった。
そんなことから、紀元前539年頃ペルシア王キュロス2世は、バビロンに補囚されていたユダヤ人たちのユダへの帰還と、エルサレム神殿の再建を許可した。ユダヤ人たちはバビロン捕囚されていた70年間ほどの間、破壊されたままになっていた、かつての神殿があった場所に神殿の建設を始めた。
ユダヤ人が補囚されている間にエルサレムに移住してきた他の民族は複雑な心境でその様子を見ていたそうだ。サマリア人は、サマリア人とはイスラエル人とアッシリアから来た移民との間に産まれた人のことだけれど、神殿建設への協力を申し出たが、ユダヤ人指導者たちはユダヤ人自身の手によって建設しないといけないと考えてサマリア人の申し出を断った。そうするとユダヤ人に対する悪評が広まり、サマリア人は逆に建設を妨害し、建設がストップしてしまったそうだ。
しかし紀元前521年、ペルシア王ダレイオス1世の時代に神殿の建設が再開されることとなった。その時にユダヤ人たちを励ましたのがゼカリヤやハガイだった。
ゼカリヤ書1章の始めに、「ダレイオスの第二年八月に」とあるが、このダレイオスが神殿の建設が再開された時のペルシア王の名前だ。
幻
ゼカリヤは8つの幻を記していて、今日の所はその4つ目の幻だそうだ。
主の御使いの前に立つ大祭司ヨシュアをサタンが訴えようとしているという場面だ。
この「訴える」と訳されている言葉は「サータン」という言葉で、その名詞形がサタンだそうだ。つまりサタンは訴える者、告発者、裁判の時の検事役みたいなもので、そもそも悪霊というような意味はなかったそうだ。
そのサタンがヨシュアには咎めることがあるから、神がヨシュアを捨てるようにと訴えている。しかし主の御使いは、エルサレムを選ばれた主はサタンの方を責める、ヨシュアは火の中から取り出された燃えさし、つまりバビロン捕囚を生き抜いてきた者であるのだと告げる。そして御使いは自分に仕える者たちに、ヨシュアの汚れた衣を脱がせて晴れ着を着せ清いかぶり物をかぶらせるようにと命じ、ヨシュアに向かってお前の罪を取り去ったと告げる。
またあなたたちはしるしとなり、若枝であるわが僕を来させる、七つの目がある石に碑文を刻み、一日のうちにこの地の罪を取り除く、その日にはあなたたちはぶどうといちじくの木陰で招き合うと告げる。
この辺りの幻は何を意味しているのかよく分からないけれど、ぶどうといちじくの木陰で招き合うというのは、神の祝福の内に互いを大事にし合う時がやってくるということを言っているのかなと思う。
バビロンに捕囚されていたユダヤ人たちは、ついにエルサレムに帰れる、神殿を再建できると意気揚々と帰ってきていたんではないかと思う。ところが自分達がいない間に移住してきた他民族の妨害のために神殿再建は中断させられてしまっている。期待を持って帰って来たのに、それが頓挫して落ち込んでいたんだろうと思う。そんな民をゼカリヤは励ましているようだ。
燃えかす
2節で主の使いがサタンに向かってヨシュアのことを「火の中から取り出された燃えさしではないか」と言っている。
燃えさしという言葉が気になった。燃えさしというより燃えかすの方がしっくりするなあと思う。
主は、バビロン捕囚という苦しみを経験したきた、そして燃えかすのようにぼろぼろになっているイスラエルの民を放ってはおかない、放っておくはずがない、イスラエルの民の汚れた衣を脱がして、それは神に対する罪、神に従わなかったという過ちなんだろうけれど、その汚れた衣を脱がして晴れ着を着せようとしているのだ、ゼカリヤはこの幻を通してそのことを告げているような気がしている。
これは私たちにも通じるメッセージでもあるのだろう。
私たちも間違いを犯し、挫折し、人を傷つけたり傷つけられたり、或いは希望を失って落ち込んでばかりいる。私たちと言ってはいけないのかな。私はそうだ。なんだかぼろぼろになっているような、まさに燃えさし、燃えかすのような有り様だなあと思う。
今日の幻にはサタンが登場する。サタンとは告発者だと言ったけれど、僕も自分を告発する声がいっぱい聞こえてくる。お前はあの時あんな失敗をした、あの時こんな間違いをした、お前はやっぱり駄目だ、お前には能力がない、実行力もない、お前は失格者だ、そんな声が心に響いてくる。
しかし神はそんな燃えかすの私のことを放ってはおきはしないのだと言ってくれているのかなと思う。確かにサタンに告発されるようなことをしてきたし、自分の実体はまさにその通り、ごもっともですと言うしかないと思う。しかしそんな汚れた衣を神は脱がせて晴れ着を着せると言っているようだ。
そんなこと本当にできるのかと思う。できるのかというかそんなことしてくれるんだろうかと思う。でもそう思うということは自分自身がその汚れた衣を脱がされないようにしがみついているようなものなのかもしれないなあという気もしている。
大丈夫俺に任せろ、お前がするんじゃない俺がするんだ、だから俺に任せろ、なんだかそう言われているような気がしてきた。俺とは言わないだろうなと思いつつ、神は、私が燃えかすのあなたに晴れ着を着せるのだ、だから私に任せなさいと言われているような気がしてきている。