礼拝メッセージより
星は何でも知っている?
昔、♪星は何でも知っている♪という歌があったなあ。ちょっと似てる?
神は私のことを何でも知っている。座るのも立つのも、歩くのも伏すのも、神は何でも知っている、この詩編はそんなことを語る。
また神は前からも後からもを私を囲んでいて、どこまでいっても神から逃れることはできない、逃げようがない、天に上っても、陰府に入っても、海のかなたに飛んで行っても、そこにいて私を導きとらえていてくれる、そして暗闇の中にいるときも私を照らし出してくれるなんてことも語る。
そもそも母の胎内で私を組み立ててくれたのも神だ。神は私に命を与えたその時から、その前から私のことをずっと見てくれている、一日も残らず見てくれている、この詩編はそう語る。
イエスが、神はあなたの髪の毛の数まで知っているなんてことを言ったことがあるけれど、それだけじゃなくこの詩編では身体の中の骨まで知っていると言っている。
バレバレ
僕は大体が良い格好しいなので、格好いいところや物知りな所を見せたいと思っている。すごいと言われたい気持ちがすごくある。だから逆に人に知られたくないことを隠そうとする。失敗したり間違ったりすると嫌われるんじゃないかとか、見損なったと言われるんじゃないかと思ったり、自分の本心を見せると、あんな奴だったのかと見捨てられてしまうんじゃないかとか、そこまでいかなくても距離を置かれるんじゃないかとか、格好悪いと思われるんじゃないかとか、見くびられるんじゃないかとか、そんなことをいつも心配している。
でも神は何でも知っている。私のことは何もかも知っている。神からは隠れようもないし、隠しようもない。何もかもバレバレだ。何もかも知られてしまっているというのは何だかまずいなあという気持ちもある。あんなこともこんなことも知られてるのかと思うとやばい気もする。
でも逆に考えるとバレバレなんだから隠す必要もないということだ。隠さなくてもいい。そしてばれるんじゃないかと心配することもないということだ。知ってくれているということは安心できることだと思う。
秘密
だいぶ前に見たテレビでみた話しだけど、トラックドライバーがデートをした後、酒を飲んで車で帰る途中に、雨の中を横断した人を轢いてしまった。だったと思うけれど、人を轢いてしまってそのまま逃げてしまったそうだ。酒気帯びで捕まると仕事にも差し支えると思ってつい逃げてしまったらしいけれど、その人はその車を友だちに預けて仕事もやめてそのまま蒸発してしまったそうだ。
その人が今どうなったのかは知らないけれど、そんな人に知られたくない秘密を抱えて、いつバレルかとビクビクしながら過ごしていたんだろうなと、想像するだけで苦しい気持ちになったことがあった。
轢き逃げをした人は、それを認めて罪を償った方が気持ちはだいぶ楽になるような気もするけれど、案外人には決して誰にも知られたくない思いを誰もが持っているんではないかという気もする。ドロドロした薄汚い思いや邪悪な思い、そんな決して誰にも見せられない思いを誰もが抱えているんじゃないかと思う。
今日の詩編の19節からの所には敵に対する怨み節が出てくる。あいつ等が憎らしい、あいつ等を滅ぼしてくれ、そんな憎しみの思いが出てくる。なんだかこの詩編に似つかわしくない言葉のような気がしていた。これがなければこの詩編はきれいで格好いい素敵な詩編なのになあと思っていた。
でもこの怨み節は人間の奥底にある、格好良くない、人に知られたくないドロドロした思いであって、そんな思いをも神は知っているし、そんな思いをも神は聞いてくれ受け止めてくれているということなんじゃないのかなという気がしている。
感じること
今日の詩編を読みながら、そんなことは知っているよと思っていた。神が自分のことを知っていることも分かっている、だからどうなのよ、一体何が言いたいんだと思っていた。でも知っていることと感じることは違うんだないう気がしてきている。
例によって週報の裏に載せるコメントもまとまらないので、何か良い言葉ないかなと探している時に見つけたのがこの言葉だった。
「この世界において、最高で、最もすばらしいものは、見たり、触れたりすることはできません。それらは、ただ心で感じなければなりません。」(ヘレン・ケラー)
感じてないなあというか感じようとしてないなあと思った。神は何でもしっているという理屈は知っていても、そのことを感じてないなあと思った。
メッセージが出来なくて、土曜日はそのことを気にしながら一日悶々と過ごして結局一行も掛けないで夜を迎えてしまってどうしようと焦りながら布団に入ることも多いけれど、実はそんな気持ちを神は知ってくれているんだということに気付いた。礼拝の時間が迫ってるのにまだ出来てないと焦る気持ちも知ってくれているんだと思った。
礼拝の人数が少なかったり、メッセージで何を言いたのか全然まとまらなかったり、全然伝わってなかったりする時に、なんて自分は駄目なんだろうと落ち込んでしまうけれど、そんな気持ちは神は知っているんだと気付いた。
神のことも聖書のことも罪だの贖いだの、ろくに分かっていなくて、本当に牧師やってていいんだろうかと思ったり、そもそも自分に信仰はあるのかと思ったりすることもあるけれど、そんな気持ちさえも神は分かってくれている、そんな自分のありのままを知ってくれているんだということも改めて気付かされたような気持ちになっている。
何もかも知ってくれている、だから隠す必要もないし、良い格好する必要もない。そのままのありのままの私たちを神は見てくれているということだ。神はそのありのままの私たちを大切だ、大事だ、愛していると言ってくれている。すごいなと思うし、嬉しいなと思う。