礼拝メッセージより
底
深い淵の底ってすごい表現だなあと思う。
ところで地球上で一番深い所はどこか。小学生の頃そんなどうでもいいことを一所懸命に覚えていたことがあって、地球で一番深いところはマリアナ海溝の中のビチアス海淵というところで、確か水深11,034mだったように覚えていた。それが合っているかどうかと思ってネットで調べると一番深いのはチャレンジャー海淵の10,920±10mだと書いてあった。ビチアスとかチャレンジャーというのは水深を調べた時の船の名前だそうだけれど、ビチアス海淵はどうなったのかと思ったら、後で調べても11,034mの深さではないというか、その深さの場所は見つかってないらしくて、今はチャレンジャー海淵が地球上で一番深い所だそうだ。
勿論そこに行った人もいないし見た人もいないし、そもそもそんな深い海だと光は届かなくて真っ暗闇なんだと思う。
深い淵の底ってそんなチャレンジャー海淵のようなところなんじゃないかと思う。人間も落ち込むとどんどん深みにはまっていってしまう。行き着く先はまったく何も見えない真っ暗なチャレンジャー海淵のようなところでもある。
引きこもり
人生には時にそんなまるで真っ暗な海の底にいるような思いになることもあるんだろうなと思う。この詩編の作者の語る深い淵の底とは一体どんなところだったんだろうか。
そんなことを思っているとふとかつての引きこもりの時のことを思い出した。
中学までは優等生のつもりで、内心威張っていたのが、高校に入ってみるとまわりはそれなりの者ばかりで、学校の授業もついていけなくなっていった。だんだんとしんどくなって、それでもしばらくは頑張って時々休みながらも登校していた。休むと余計ついていけなくなって、ついに限界がきたような感じですっかり登校拒否をするようになった。
あの頃自分の部屋で何してたかな。夜中ずっとラジオを聞いていた。夜中3時からトラックドライバーのための放送があって、5時に終わるんだけれど、最後にいつも「夜明けの歌」がかかっていて、それを聞いてから寝るような生活だった。
勉強なんて全然しないし、好き勝手してると言えばその通りなんだけど全然楽しくなかった。このままじゃいけないと思うけどそこから抜け出す力も勇気もない、未来にまるで希望を持てない、駄目な未来しか想像できない、そんな思いのまま悶々と過ごしている感じだったような気がする。
その頃ギデオン協会からもらっていた聖書を少し読んだりもした。確か最後の方に、神を信じるようになった人は名前を書くようにという所があって、全部読んだらそこに名前を書いてもいいんじゃないかというか、書く資格が与えられるんじゃないかというかそんな気持ちになって読み始めたけれど、途中で挫折してしまったことがあった。
そんなことも関係あったのかな、なんとなく教会に対する憧れをもつようになったのは。部屋を出るようになってというか、かなり強引に引きずり出されて病院に入院させられたり、親戚の肉屋にアルバイトするようになったりしたけれど、その頃大草原の小さな家というドラマをよく見ていて、クリスチャンという人に会った記憶もない自分には、そこに別世界があるような気がした。
知らない世界に飛び込むのは結構勇気がいったけれど、教会はやっぱり違っていた。学校に行かなくなってから責められてばかりだったけれど、教会では責められることはなかった。
よくは分からないけれど、この世界にいたいという気持ちがあって、特別伝道集会というのがあったときに、信じる決心をした人はという誘いに答えて手を挙げた。すごく嬉しかった。居場所ができたような感じだったように思う。
一縷の光
ずっと神の導きがあったのだろうか。多分そうなんだろうなと思う。
今日の詩編の作者のような、主が罪を全部心に留めたら耐えられないとか、主が罪から贖ってくれるとか、そんなことはよく分からない。
でも深い淵の底にいる自分に神は目を向けてくれていたんだろうなと思う。10,920mの真っ暗なチャレンジャー海淵にいるような自分のところへも主は来てくれる、そこでうずくまっている自分の所へも来てくれるのだと思う。
神が共にいる、それは海の底にいる者にとってはほんのわずかな一縷の光かもしれない。しかしそれは真っ暗闇の中にさす確かな光なのだと思う。
どんな深みにはまったとしても、神は決して見捨てはしない。底から呼びかける声を確かに聞いてくれている。どんな真っ暗闇の中にいたとしても、神は決して見捨てはしない。その暗闇に光を射している。
だからちょっと上を見上げて見なさい。そこには必ず神の光が見えるはずだ。一縷の光かもしれない、しかしその光はお前をしっかり支える確かな光だ、この詩編はそんなことを教えてくれているような気がしている。