礼拝メッセージより
巡礼
1節には都に上る歌、とある。この詩編は巡礼の時に歌われた歌だそうだ。
今から巡礼の旅に出ようとする時に山を見上げて、困難な道中の助けを願っているという状況なんだろうか。それとも、巡礼の地であるエルサレムにやってきて、そこから周りの山々を見ているような気がする。
神の守りを感じたこの人が、他に人たちに対しても、神の守りを願っている、祈っているということのような気がしている。
この歌は、イスラエルの人達がバビロンに補囚された後、やがてエルサレムへの巡礼が許されるようになった時代にできた歌だそうだ。当時は戦いに負けるのは敵の神の方が自分達の神より強かったからだというような考えもあったそうだ。自分達の神は弱いのか、この神は本物の神なのか、それとも神は自分達を助けてはくれないのか、そんな不安というか不信というか、バビロン捕囚というのはそんな自分達の信仰を見つめ直す次期だったようだ。
自分達の神は無力だとか、神は自分達を見放した、助けてはくれない、そんな結論になったとしても仕方ないような時期だったのだろうと思う。
この詩は「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのだろうか。」と語る。それは心の底からの叫びだったんじゃないかと思う。現実はどこにも助けはないじゃないか、という叫びになりそうな状況だったんだろうと思う。でもこの詩は「私の助けは、天地を造られた主から来る。」と語る。
山々
神の助けは自分の目の前に持ってこれるようなものではない。打ち出の小槌のように自分の持ち物として持っておくこともできないものだ。どこにあるのか、どこから来るのかと探し求めるようなものでもあるのだろう。だからこそ遠くの山々を見上げて本当にあるのかと思うような、私たちにとってはやっぱりおぼろなことでもある。
しかし目の前に持ってくることも、手に持つこともできないけれど、やっぱり神の助けはあるのだ、天地を造った主のもとからやってくるのだ、とこの詩は語る。
山ってのは、周りを見回した時に一番遠くに見えるものなんじゃないかと思う。見えるところには神の助けという実体があるわけではない。でも見えないからないわけではない。見えないけれど神の助けはあるのだ、とこの詩人は告白している。
4節以下はその主の説明みたいになっている。まどろむことなく眠ることもない。あなたを見守る方、あなたを覆う陰、あなたの右にいます方、なのだという。見えないけれどもすぐそばにいるということだ。眠ることもなく昼も夜もそばにいて守ってくれる、そんな方だという。そしてその神があなたを見守ってくれるように祈っている。
ことば
こういう言葉を聞いた人はそうだなと素直に信じられたのだろうか。神が助けてくれから大丈夫、と安心できたのだろうか。
最近そんなことをよく思っている。不信仰なだけなのかもしれないけれど、神が守ってくれるから、と聞くだけで大丈夫と安心できるんだろうかなんて考える。
最近なんだかしんどくて、神の助けとか神の守りとか本当にあるのか、どこにあるのかと思っている。
この詩編のような言葉も、言ってることはわかるけれど、きっとそうなんだろうなとは思うけれども、なんとなく実感がわかないというか、これを聞いてそうだ、そうだったんだと元気になれない。それこそ、7-8節にあるように、「主がすべての災いを遠ざけて、あなたを見守り、あなたの魂を見守ってくださるように。あなたの出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに」と祈って欲しいという気持ちだ。
助け
こんな話しがある。
【ある敬虔なクリスチャンの男が川沿いを散歩していると、誤って足を滑らせ川に落ちてしまった。岸に向って必死に泳いでいたが、流れが急で全然進まない。すると、そこへ偶然にもボートが通り掛かり、助けの手を差し伸べるとその男はこう言った。
「いや、大丈夫。私には神様がついている。神様が助けてくれるから、助けは必要ない」
しばらくすると、また別のボートが通り掛かり、同じように男を助けようとした。
「私のことは神様が助けてくれるから大丈夫だ。さぁ、行ってくれ」
しかし、結局男はそのまま力尽き、死んでしまった。
天国に着いた男は神様に会うとすこし怒りながら尋ねた。
「神よ、どうして私を助けてくれなかったのですか?」
神は言った・・・
「何を言っておるのだ?2回も助けのボートを出したではないか・・・」】
神の助けなんてどこにあるのかと思っているけれど、それは神が目の前に現れてくれるとか、現れないまでも神が奇跡的なことを起こして自分の周りの状況を一変に変えてくれるものだと思っているから、それに気付いてない、神の助けに気付いてないだけかもしえないなあと思った。
神はきっといろんな方法で私たちを助けてくれるのだと思う。色んな人との出会いを通して助けてくれてもいるんだと思う。天使というのはそんな風に神が出会わせてくれた人のことじゃないかという気がしている。
いろんな助けがあるけれど、一番の助けはやっぱりイエスが共にいてくれることなんじゃないかと思う。
イエスが心の中にいてくれるから、どんな時でも、どこにいても、私たちは独りぼっちではない、独りぼっちになることはない。
それはまさに主の助けそのものだと思う。
ひとりじゃない
この前インターネットを見てるときに中学の頃いじめられていたという人の話しが出ていた。
その人はボスと取り巻きの数人の同級生からのいじめが続いていて、他の同級生も先生も見て見ぬ振りをするような状況だったようでやり返すこともできず、兎に角卒業まではどうにか耐えようと思っていたけれど、ずっとつづくいじめにもう限界だというような思うようになっていたそうだ。
そんな時に一度同級生の女の子が、いい加減にしろよと言ってくれたそうだ。いじめてたボスがその子のお姉さんのことを好きだったということもあったそうで、いじめがなくなりはしなかったけれどその後はいじめが軽くなったそうだ。その人が言うには、いじめが軽くなったこともあったけれど、自分はひとりじゃないと分かって、卒業まで耐えることができたと書いてあった。
ひとりじゃないと思えることで救われるなと思う。
あなたはひとりじゃない、ひとりぼっちじゃない、それはイエス・キリストがいつも言っていたことだと思う。イエスはみんなから差別され除け者にされ、そして自分でも自分のことを駄目だと思っている、価値のない人間だと思ってる、そんな人のところへ出掛けていった。そしてあなたはひとりじゃない、私がいつも一緒にいると語っていた。
私たちにはそんなイエスがいる。私の助けはどこから来るのか、と思う時もある。いや、よく思う。しかし私たちの助けはもうすでに来ているんだろうと思う。イエスはもう私たちのところへ来てくれている。私たちの心のなかにもう既に来てくれている。聖書と通して、聖書の言葉を通して、私たちの心の中にはもうイエスの言葉が入っている。イエスの言葉というか、イエスの思い、イエスの愛がもう既に心の中にある、それはイエス自身がもう既に私たちの心の中にいるということだと思う。
今も、そしてとこしえに
主が、イエスがずっと見守ってくれているのだ。
「今も、そしてとこしえに」っていうのはかっこいい言葉だな。
今も、そしてとこしえに、イエスは私たちと共にいてくれる。見えないし証拠はないしただ信じるしかない。しかしそう信じられることはとても幸せなことであるし、そう信じることで生きる力も湧いてくる。
今も、そしてとこしえに、イエスは私たちと共にいてくれている。