礼拝メッセージより
神の計画?
モアブから帰ってきたナオミのために、一緒にモアブからやってきたルツは姑のために畑に落ち穂を拾いに行く。たまたまその畑はボアズという、ナオミの夫エリメレクの一族の人の畑だった。
ボアズはどうもルツに一目惚れしたらしい。そこでルツのために特別に便宜を図ったようだ。麦束の間で落ち穂を拾えるようにしたり、喉が渇いた時にはすぐに水を飲めるように許可をした。そして他の畑にいかなくていい、ずっとここにいるようにと言った。
ルツはどうしてそんなに親切にしてくれるのかとボアズに問うと、ボアズはしゅうとめに尽くして見知らぬ国まで来ているから、と答えている。でもそれはきっと思えて向きの返事で、本当は一目惚れをして自分の近くにいてほしいためなんだろうと思う。だからこそ他の畑に行かなくてもいいなんてのも、自分のところにいて欲しいのだろう。
ボアズはさらに、ルツに食べきれない程の食事を与えたり、わざと穂を落としておいたりした。
ルツは仕事を終えて、多くの大麦と食事の残りとを持ってナオミのもとへ帰っていった。それを見たナオミはびっくりして、一体誰がそんなに親切にしてくれたのかと聞き、それがボアズであり刈り入れが終わるまで落ち穂を拾いに来るようにと言われたことを知った。
策略
ナオミはルツの話しからルツに対してボアズが一目惚れしたことに気がついたのだろう。ボアズはナオミの亡き夫の一族であり、部族の利益を守るため財産や人を買い戻し、家を絶やさないようにする責任のある人であった。たとえば家族や近親者が、先祖伝来の土地を失ったり、あるいは奴隷の状態に陥ったというときに、その土地や身柄を一族のものが買い戻すというきまりがあった。また、夫婦に子どもがないままに夫が死んだ時には、その弟が兄の妻と結婚して子どもを産んで、兄弟の名を残さないといけない、という決まりもあった。ナオミがモアブからベツレヘムに帰る際、亡くした子どもの妻たちが付いてくると言った時にナオミが、あなたたちの夫となるような子どもを私が産めると思うのか、仮にすぐ産めたとして大きくなるまで待つのか、なんてことを言ったけれど、それもこの亡き兄弟の妻をめとらないといけないという決まりのことを言っている。もちろんボアズはナオミの子どもではないけれど、それに準ずるというようなことなんだろうか。ナオミはボアズとルツを結婚させることを狙ったらしい。
そこで機会を窺っていたんだろうと思うけれど、大麦をふるい分けるという日に、ルツに身体を洗って香油を塗り、肩掛けを羽織って麦打ち場に行き、ボアズが食事を済ませて酒を飲んだ後眠った後に、ボアズの衣の裾で身を覆って横になるように、と命じた。要するに夜這いをしたということだ。
しかしボアズは、自分以上に家を絶やさないようにする責任のある人がいる、しかし明日までになんとかすると言って、多くの大麦を持たせてルツを暗いうちに帰した。この大麦は自分もルツと結婚したいと考えているという、ナオミに対するボアズのメッセージなんだろうと思う。
ルツからことの次第を聞いたナオミの言葉がまたふるっている。「わたしの娘よ、成り行きがはっきりするまでじっとしていなさい。あの人は、今日中に決着がつかなければ、落ち着かないでしょう』(ルツ記3:18)。しめしめ計画どおりだ、と言っているようだ。
そこからが今日の聖書箇所になる。
ボアズは自分以上に責任のある親戚の人と町の長老から10人を集めて、その親戚に向かって、ナオミが亡き夫エリメレクの土地を売ろうとしていて、あなたにその責任がある、と言った。その人はならば自分が買うと言うが、続けてボアズが、土地を買うならルツも引き取らないといけない、と言うと親戚は、そこまではできない、あなたが責任を負ってくれとボアズに答えた。畑を買い取ることと、ルツを引き取ることとは本来別のことのような気もするけれどどうなんだろうか。それは兎に角ボアズはルツも引き取るという条件をつければ親戚がいやがるだろうということを最初から承知していたんじゃないかなと思う。そうするとボアズもしめしめと思ったんじゃなかろうか。
ボアズは証人のいる中で、その責任を自分が取りルツも引き取るということを宣言し、晴れてルツと正式に結婚することができた。そしてルツは男の子を産んだ。そこで女たちはナオミに声をかけたとあり、ナオミはその乳飲み子をふところに抱き上げ、養い育てた、そして近所の婦人達はナオミに子どもが生まれたといったと書いてある。その時生まれた子はオベドど名付けられてダビデの祖父となった、と書かれている。
しかし証人となった人達の言葉はなんなんだろうか。「主がイスラエルの家に立てたラケルとレアの二人のようにしてくださるように」ってのは何を言いたいのだろう。確かにヤコブの子供達の名前がイスラエルの12部族の名前にもなっているし、夫のヤコブがイスラエルと呼ばれていて、その家族からイスラエルが始まったと言えなくもないのかもしれない。しかしラケルとレアの姉妹間でも諍いがあったり、親父がラケルの子供ばかりを特別に可愛がったことでいろんな問題が起こったこともあった。
また「タマルがユダのために産んだベレツの家のように」なんて言っているけれど、タマルはユダの息子エルと結婚したけれどエルが死に、レビラート婚のしきたりに従って、次の弟と結婚したけれどその弟もまた死んで、次の弟と結婚するはずだった。しかしユダは三番目の息子と結婚させようとせず、タマルは仕方なく神殿娼婦の振りをして義理の父であるユダの子を産んだ、それがベレツだった。そのベレツのようにというのはどういう意味なんだろうか。
どこ行った?
ここにきてルツは一体どこに行ったのだろうか。ボアズと結婚し子どもが生まれるまではいたのに、生まれた途端ルツは消えてしまった。ついでにボアズも消えてしまった。ナオミだけが残っていて、ナオミが子どもを生んだかのように書かれている。亡くした兄の妻と結婚するのは、亡くなった兄の名を残すためということなので、ナオミの家を継ぐ子が産まれたのでナオミの子と言ってもいいのかもしれないけれど、それにしても子どもが産まれた途端ルツはもう用なしになったかのようで不思議な気持ちだ。ルツのその後も気になる。ボアズと幸せに暮らしたのだろうか。
たまたま?
これは偶然なのか必然なのか、なんて話しをよく聞く。ルツがボアズの畑で落ち穂を拾ったのは偶々なのか、それとも神の計画だったのか。たまたまかもしれないし、神の計画なのかもしれない。
偶然か必然か、それは自分自身が決めることのような気がする。たまたまだと思う人にとってはたまたまだし、必然と思う人にとっては必然なんだろうと思う。神の計画だと思う人にとっては神の計画なんだろう。
幸せということと似ている気がする。何がどうあったら幸せなのか、幸せの条件はなんだろうかとよく考える。財産がいっぱいあって健康でなんてことを考えるけれど、そんな条件を満たしたからと言って幸せかというとそうとも限らないと思う。よくよく考えると条件が満たされることよりも、自分が幸せと感じるかどうか、幸せと思うかどうかなんじゃないかと思うようになった。結局自分が幸せと思う時が幸せなんだろうと思った。そんな時に、「しあわせはいつも自分の心が決める」(相田みつを)なんて言っている人がいて、同じようなことを考える人がいるんだと思った。
幸せと同じで、偶然か必然か、それも結局自分が決めることなんじゃないかと思う。だから、これは偶然なんかじゃない必然なんだ、神の計画なんだ、と人に押しつけることもできないし、そんなことをしても仕方ないと思う。
なにもかも偶然なのかもしれないし、神の計画なのかもしれない。私たちには断言できなように思うけれど、神の計画だと思えるとしたら、神が自分のことを見ているわけで、決して独りぼっちではないわけだ。神の計画だと思えるということは一人じゃないってことだ。
一緒にいる
もちろん人は自分一人で生きているわけではなくいろんな人と一緒に生きていくわけだけれど、自分の心の中にいられるのは自分自身とあとは神だけじゃないかと思う。神の計画の中に生かされているということは、心の中に神を迎え入れて、その神と共に生きるということなんじゃないかと思う。
心の中はひとりぼっちで、何事も偶然だと思って生きるのか、心に神を迎え入れて神と共に、神の計画の中に生きるのか、どっちを選ぶのかそれは私たち自身が決めることなんじゃないかと思う。
イエス・キリストは、いつもあなたと共にいる、なんて言ったけれど、それはイエス・キリストが私たちの心の中に一緒にいてくれているということなんじゃないかと思う。
だからと言ってルツ記のようにめでたしめでたしということになるかどうかは分からない。将来どうなるなんて私たちには分からない。神を信じていればいいことばかりが起こるかどうか分からない。祈れば叶うかどうかもわからない。しかしそんな先の見えない人生を、イエスが一緒に生きてくれているというのはほんとに嬉しいことだなと思う。