礼拝メッセージより
ナオミ
今日の主役はナオミかな。ルツはナオミの言うとおりにしただけ、という感じだな。
不幸のどん底に落とされ、自分の運命を呪いつつ故郷のベツレヘムへルツと共に帰って来たナオミだった。
しかしナオミはルツが自分の縁続きであるボアズの畑で落ち穂を拾っていて、そのボアズがルツに好意を持っていることを知り、途端に元気になったようだ。
ナオミはボアズの様子を探ったらしく、今晩麦打ち場で大麦をふるい分けるという情報を手に入れてくる。畑の近くの岩場で打った麦を放り上げて、風を利用して実ともみ殻をふるい分けて、主人や使用人が盗まれないようにそこで寝泊まりして番をしていたそうだ。
ナオミは絶好のチャンスだと思って、ルツに指図する。身体に香油を塗り、肩掛けを羽織って麦打ち場に行くように、ボアズの食事が終え飲み終わり、寝る時に、衣の裾で身を覆って横になるようにと。
要するにボアズを誘惑して関係を持つように、つまり夫婦になるようにしむけたということのようだ。ボアズがルツに好意を持っていることは明かだから断るはずはないという読みだったということだろう。ルツがボアズと結婚してくれたらルツも幸せになり、自分も安泰だという気持ちもあったのだろうと思う。
ボアズ
突然足もとに女性が寝ているのを知って、ボアズはそれが当然自分を誘惑していること、ひいては結婚を求めているだと分かっていたと思うけれど、それがルツだと知ってびっくりしつつ、自分が好意を持っている相手だったのでやっぱり嬉しかったんじゃないかなと思う。
ここでルツはボアズに、あなたは家を絶やさぬ責任のある方です、と言っている。だから自分と結婚しないといけないと言いたいのかな。半分脅迫みたい。これもナオミの指図かな。
これに対するボアズの返事が10節にある。「わたしの娘よ。どうかあなたに主の祝福があるように。あなたは、若者なら、富のあるなしにかかわらず追いかけるというようなことをしなかった。今あなたが示した真心は、今までの真心よりまさっています。」なんて言っている。この真心ってなんなんだろう。
ボアズはルツに、心配しなくていいきっとあなたが言うとおりにします、と言いつつ、自分以上に家を絶やさない責任のある人がいると告げる。そしてその人が責任を果たすというならそうさせる、しかしそれを好まないなら私が責任を果たします、なんてことを言っている。
イスラエルでは土地は神の所有であって、原則的に売買が禁じられていて、やむなく売却する場合は、買い戻す権利と義務が売った本人に伴ったそうだ。そして本人が買い戻せない場合は親族が買い戻さないといけないということになっていたそうだ。ボアズが買い戻す権利と義務を負っている親族で、もう一人その責任のある人がいる、ということのようだ。
心配しなくていい、きっとあなたが言うとおりにしますというのは、もう一人近しい親戚がいるけれど自分がうまく処理するということかな。
そしてその責任のある人がもう一人いるからということからなのだろうし、よからぬ噂が立って面倒なことにならないようにということなんだと思うけれど、ボアズはその日はルツと関係を持つこともなく、誰にも知られないように夜明けの暗いうちに六杯の大麦を持たせてルツを帰した。この大麦はしゅうとめのところへ手ぶらで帰すわけにはいかないからと言ったとあるけれど、これはボアズからナオミへのメッセージ、つまり自分もルツとの結婚を望んでいる、何とかそのようにしたいという思いを伝える大麦だったんだろうなと思う。
元気
その夜の出来事を知ったナオミは「わたしの娘よ、成り行きがはっきりするまでじっとしていなさい。あの人は、今日中に決着がつかなければ、落ち着かないでしょう。」と言ったと書かれている。
よし計画通りうまくいった、してやったりと言う気持ちもあるんだろうし、今の状況をわくわくしながら楽しんでいるような感じがする。
苦しい状況でベツレヘムへ帰ってきたナオミたちだった。その時には将来の希望も見えず、自分の境遇を呪い、運命を呪っていたかのようだった。ルツが落ち穂を拾いに行ったのが状況が変わる発端だったけれど、それもルツが自分から言い出したことだった。ナオミは何をする元気もなく、ただじっとしていたんだろうと思う。
しかしここに来てナオミは俄然元気になっているみたいだ。ボアズの様子を調べ、この夜ルツをボアズの元へ向かわせたのもナオミだった。そして今後の成り行きもわくわくしながら見守ろうとしているようだ。
何がすごいって、こうやってナオミを元気に生き生きとなったことが一番すごいことじゃないかという気がしている。ここでは直接神が登場するとか、神が何かをしたなんてことは書かれていない。しかしナオミに生きる希望と力を与え元気にした、それこそが神の働きなんじゃないかと思う。
見えないところで私たちを元気にする、それこそが神の働きなんじゃないかなと思う。
教会に行き始めた頃、山に向かって海に飛び込めと言って、少しも疑わずに自分の言うとおりになると信じたらそうなる、なんていう福音書を読んで、うちの裏山に向かって海に飛び込め、そうしたら広島のテレビがもっときれいに見れる、なんて思っていた。けれど山は全然動かなかった。
それだけじゃなく神が奇跡的なことを起こして欲しいと思うことも多いし、奇跡的に病気を治すとか、そんな目を見張るような、誰もがびっくりするようなことを起こしてこそ神だ、聖書にも書いてあるしなんて思うこともあったけれど、現実にはそんなことはほぼほぼ起きてない。勿論信仰が足りないからかもしれないけれど、そういう奇跡的な出来事が起こることよりも、人の心が元気になること、生き生きとなること、そっちの方がよっぽど大事なことというか、素敵なことなんじゃないかという気がしている。そしてそんな風に心を元気にすることこそ神の業じゃないかという気がしている。
ナオミのように、状況が好転してきて、希望を持ち元気にしてもらうこともあるだろうし、それも神の業というか神の導きなんだろうと思う。しかしもっとすごいのは私たちが何もない、何も希望もない、もうダメだと思う時に、そんなことはない、希望はあるじゃないか、元気の素はあるじゃないかと教えてくれたイエスだ。
空の鳥を見てみなさいよとか、思い悩まんでもいいよとか、重荷を負って苦労している人はわたしの下で休みなさいとか、イエスは私たちの周りの状況を奇跡的に変えるのではなく、私たちの心に元気を与える、希望を与えるそういう仕方で私たちを支えてくれているのだと思う。山は動かないけれど私たちの心を動かしてくれるのだと思う。心が変われば世界は変わって見えてくるし、それは結局は世界を変えることと等しいんじゃないかと思う。
ナオミが元気になった。それこそが神の導き、神のわざなんじゃないだろうか。そして私たちが希望を持ち元気になるように、神はイエスの言葉を通して私たちに語りかけてくれているように思う。