礼拝メッセージより
言葉
少し前のAIのテレビで大学の先生が、言葉は情報を落とす、でも保存性は上がる、と言っていた。
見事な言い方だなと思った。自分の思いを言葉にして伝えようとしても、思いを言葉にすること自体が難しいし、その言葉を相手がこちらの思ったように理解してくれるかどうかも分からない。なんてことをよく考えている。だから言葉は情報を落とす、と聞いた時にはすごく納得し、そういう言い方にも感心した。
言葉で伝わる情報量って本当に限られると思う。例えば旅行に行って綺麗な景色を見て、その景色を誰かに伝えたいと思うとして、それがどんな景色だったかを相手に言葉で伝えることはとても難しい。写真だと伝えやすいし写真の方が情報量はすごく多い。
聖書は言葉しかない。でもその言葉には実際には背景や状景があったはずで、後ろというか裏にはいろんなものやいろんな気持ちが隠されているような気がしてて、どうしてこんなことしたのかなとか、どんな気持ちでこんなこと言ったんだろうかなんてことを想像しながら読んでると結構面白いと思う。
聖書って突っ込み所満載で、案外突っ込んだところに宝が隠されているような気もしている。
聖書に登場する人達もそれまでは絵に描いたような薄っぺらな感じだったのが、だんだんと肉体を持ってくるような、3次元に近づいてくるようなイメージがしている。こんな言い方で伝わるんだろうかと思いつつ。
背景
ルツ記の背景にはイスラエルの決まりごとがある。
一つはレビラート婚と言って、兄弟が妻を残して死んでしまったときは、その名を残すために弟が兄の妻をめとる、そしてそこに産まれた子どもは兄の子ということになる、というような制度があった。
二つ目は、貧しくなって土地を売ったときは、親戚が買い戻さないといけないという決まりがあった。
「もし同胞の一人が貧しくなったため、自分の所有地の一部を売ったならば、それを買い戻す義務を負う親戚が来て、売った土地を買い戻さねばならない。」(レビ記25:25)
三つ目は、社会的な弱者のために落ち穂を残さないといけないという決まりがあった。
「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。」(レビ記19:9-10)
ここまでのあらすじ
飢饉のためにユダのベツレヘムから、エリメレクとナオミという夫妻と二人の息子がモアブの地へ移り住むというところから話しが始まっている。モアブは元々はイスラエルとは親戚関係だったけれども、この当時は外国となっていてイスラエルの神とは別の神を崇拝している異教の地であったようだ。一家はモアブへ移り住んだけれどもエリメレクは死んでしまい、息子たちはモアブの女性と結婚するが、息子たち二人も死んでしまう。女性が一人で生きていくことがとても難しい時代に、ナオミと二人の嫁の未亡人3人だけが残されてしまうというさんざんな目に遭う。
失意の中、飢饉が終わったということを聞いたナオミはベツレヘムへ戻ることにし、二人の嫁たちにはモアブで新しい嫁ぎ先を探しなさいと勧める。弟が死んだ兄の名を残すために兄嫁と結婚するという決まりがあったが、今さら自分がもう一度結婚して死んだ息子の弟を産むなんてできないし、仮にそうできたとしてもその弟が成長するまで待ってたらあんたたちも歳を取ってしまうだろうとナオミが嫁たちを説得した。オルパという嫁はナオミの説得に応じてモアブに帰るが、ルツという嫁は何がなんでも着いていく、あなたの神は私の神だ、なんてことを言うので、ナオミは半ば仕方なく一緒にベツレヘムに帰ってくる。
落ち穂拾い
失意のままにベツレヘムへ帰ってきたナオミとルツだったようだけれど、かと言って何かあてがある訳でもなかったらしく、モアブから外国人としてやってきたルツの方が落ち穂を拾いに行くと言い出している。モアブにもそんなしきたりがあったんだろうか。
そこでルツが落ち穂を拾いに行ったのが、たまたまナオミの亡くなった夫であるエリメレクの一族であるボアズが所有する畑だったというわけだ。
ボアズはナオミが来ていることを知ると、よその畑に行くことはない、ずっとここにいるようにと言い、若者には邪魔をしないように命じ、水がめの水を飲む許可を与えた。余りによくしてくれるのでルツがどうしてそんなにしてくれるのかと聞くとボアズは、しゅうとめによく尽くして異教の地である外国にまでついてきているからだと答えた。そして食事の時にもボアズはルツに食べきれない程の食べ物を与えて、落ち穂だけでなく、麦束の間でも拾わせるように、またわざと穂を落として拾わせるようになんてことまでした。
1エファ(23リットル)もの大麦と食事の残りものを持ち帰ったルツを見てナオミはびっくりし、そうしてくれたのが自分達の家を絶やさないようにする責任のある一人であるボアズだと知りなおさらびっくりし喜んだ。
一目惚れ?
ボアズがルツにこれほどまでに良くしたのか。その理由をボアズは11節で「主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。」と言っている。
でもこれは本当の理由ではないように思う。やっぱりルツに惚れたからだと思う。多分一目惚れだったんだろうと思う。聖書教育にはそんなこと書いてないし、ネットで色んな人の説教も見たけれど、だいたいの人はそういう風な見方をしていなかった。でも一人だけ見つけた。岐阜の牧師が、一目惚れと言っていいでしょう、と書いてあった。
ルツに惚れたからボアズは自分に出来る限りのことをルツにしてあげたということだと思う。ずっと自分のところへ来るようにと言ったのだろうと思う。麦の穂をルツのために落とすようにと畑で働く若者たちに命じたのも、自分がルツに好意を持っていることをアピールして他の者に手出しできないようにしたのかなという気もする。
そしてこのボアズの気持ちをルツよりも感じとったのがナオミだったんだろうなと思う。22節でナオミが、すばらしいことです、なんて言っているけれどそれはボアズの気持ちを理解してのことばじゃないかという気がしている。それに続けて、よその畑でだれかからひどい目に遭わされることもないし、と言っているけれど、「ないし」と言っているようにこれは2番目の理由であって、やっぱりモアブが惚れているということが何よりも素晴らしいことだと言いたかったんじゃないのかな。
たまたま?
ルツがボアズの畑に行ったのはたまたまだったと書かれている。そこから思わぬ事態に発展していく。まさにそこにこそ神の導きがあったんじゃないかと思うけれど、聖書はたまたまと書いてあって面白い。そんなたまたまと思うしかないようなところにも、私たちが見落とすようなところにも神の導きがあるということをルツ記は伝えているような気もしている。
今日の箇所で何よりもすごいのはナオミが元気になったことのような気がしている。1:21のところでは、ベツレヘムへ帰ってきたナオミが「出て行くときは、満たされていたわたしを 主はうつろにして帰らせたのです。なぜ、快い(ナオミ)など土呼ぶのですか。主がわたしを悩ませ 全能者がわたしを不幸に落とされたのに。」と言っていたナオミが、ここにきて「すばらしいことです」なんて言うような俄然いきいきとなっている。
「私たちは、限りある失望を受け入れなければならない。しかし無限なる希望を失ってはならない。」(キング牧師)
失望するようなこともいっぱいあるけれど、でもキング牧師がいうようにそれは限りあるものであって、私たちにはそれだけではなく無限の希望があるということだと思う。
神は見えないところで見えない形で私たちをしっかりと支えてくれている、そこに無限の希望がある、ルツ記はそのことを教えてくれているのではないかと思う。