礼拝メッセージより
決心
飢饉のためにユダのベツレヘムからモアブへ移ったナオミは、10年間の滞在中に夫のアビメレクを亡くした。二人の息子はモアブの女性オルパとルツと結婚したが、二人共亡くなり、女性3人だけが残されてしまった。
ユダの飢饉が収まったことを知ったナオミは10年振りにベツレヘムは帰ることにした。そこからが今日の聖書箇所だ。
ルツ
二人の嫁もナオミについて来ていたが、その道すがらでナオミは彼女たちに自分の故郷へ帰るようにと告げる。
この時ナオミは二人に向かって「あなたたちの夫となるような子供がわたしの胎内にまだいるとでも思っているのですか。」とか「わたしはもう歳をとって、再婚などできはしません。たとえ、まだ望みがあると考えて、今夜にでもだれかのもとに嫁ぎ、子供を産んだとしても、その子たちが大きくなるまであなたたちは待つつもりですか。」なんてことを言って説得している。
これはレビラート婚と言う律法があって、それは夫婦に子供が生まれないまま亡くなった時は、妻は夫の兄弟と結婚して亡くなった者の相続者を産むようにという決まりがあって、そのことを言っているようだ。
新約聖書でも、サドカイ派の人達がイエスに向かって、七人の兄弟がいて長男が妻を迎え跡継ぎを残さないで死に、次男、三男、四男と順番に長男の妻だった女性を妻としたが結局跡継ぎを残さなかったとしたら、復活したときにはその女の人は誰の妻になるのか、なんて質問したことがあったけれど、それもこのレビラート婚という律法があることが前提となっている。
ここでナオミは嫁たちに、ナオミ自身が今からまた結婚して亡くなった息子たちの弟を産むなんてことはできるわけないし、仮にそうやって産まれたとしてもその弟が大人になるまであなたたちは待ってられないだろうと言う。
イスラエルの律法ではそうしないといけないようになっているけれど、あなたたちはそれに縛られる必要はない、地元に帰って新たな嫁ぎ先を見つけなさいと言うわけだ。
オルパはナオミの説得に応じて帰っていったが、ルツはそれでもナオミに従っていった。生きてる限り着いていく、もし離れるようなことがあれば、主よどうかわたしを幾重にも罰してください、なんて言っている。主が私を幾重にも罰してくださるように、という言い方は旧約聖書にたびたび出てくる言い回しだけれど、何が何でもそうするというような相当の覚悟を持っている時に使う決まり文句のようだ。
そこまで言われて、流石のナオミもついに説得を諦めてルツと一緒にベツレヘムへ帰っていった。
帰還
ナオミとルツの帰郷に対して、町の人達は二人のことでどよめいたと書かれている。10年振りの帰還ということになる。ナオミさんではありませんか、と言われるほど変わっていたということなのだろう。ナオミは、全能者がわたしをひどい目に遭わせた、出て行く時は満たされていたわたしを、主はうつろにして帰らせた、主がわたしを悩ませ、全能者がわたしを不幸に落とされた、と言っている。歳を取ったということもあるのだろうけれど、不幸な目にあったためにやつれてしまって、以前のナオミは見る影もない、というような姿だったのだろう。
しかもナオミは自分をナオミ(快い)と呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでくれ、なんてことを言っている。怨み節なのかな。神が自分を不幸にしたんだ、不幸のどん底に落とし込んだのだ、夢も希望もない、というような状況だったようだ。
つづく
二人がベツレヘムへ着いたのは大麦の刈り入れの始まる頃だった、というちょっと意味ありげな言葉で今日の箇所は終わり、ではまた来週ということになる。
おいおいここでやめるのか、その後ハッピーエンドが待っているんだから、早く次へ行って、めでたしめでたしという気持ちになりたいと思う。
でもナオミもルツもその後のことは分からないし、おおよそどこにも希望は見えないような苦しい状況だ。そしてそれは私たちの今の状態と似ているような気もする。私たちもこの先どうなるのか、一寸先は闇という世界に生きているわけだ。
人生どこでどうなるか分からない。不幸だ不幸だと思っていたことが、何かのきっかけで急に好転することもある。好転すればこれは神の計画だったんだ、なんて思うけれど、好転する兆しもない時にはこれも神の計画だなんて思えない。不幸になることが神の計画だなんて言われたらやってられない。
神さまが計画を教えてくれたなら、多少の苦しいことも我慢できるのにと思う。でもそうはいかないから苦しい時には大変だ。ナオミも、神がわたしを酷い目に遭わせたのだ、わたしを悩ませ、わたしを不幸に落とされた、と言っている。苦しいことを体験し、悩むことで初めて見えてくるものもあるとは思うけれど、でもそんな苦しみも神の計画だと言われると冗談じゃないと思う。
真っ暗闇
私たちは親の手をひかれてどこかへ向かって歩いている子どものようなものなのではないかと思う。歩きにくい所を進む時もある。どこに向かって歩いているのか分からない。でも親を信頼していれば、どこに向かっているかを知らなくても心配はない。
神を信じるとは、その神と一緒に歩いて行っているということを信じるということなのではないかと思う。私たちは行き先は知らない。どんな道を通るのかも分からない。もし一人だけで歩いていかねばならないとしたら、不安と心配でいっぱいになってしまうだろう。しかし神と一緒に歩いているならば、不安は随分小さくなる。難点はその神が見えないということだ。信じるしかないというところがもどかしい。
しかし神が共に歩んでくれていると信じるか、信じないか、その差は大きい。勿論神がいる証拠を見ることはできない。まさに信じるしかない。しかし信じることで私たちの生き方はきっと変わってくる。
たとえ私たちが真っ暗闇の中を歩くような時でも神が共にいてくれている、神が自分を不幸にしたと嘆くようなことがあったとしても、それでも神はその人と共にいる。
苦しいことばかりが続くと神は一体どこにいるのかと思う。ルツ記のようにハッピーエンドになればいいけれど、そんなに都合良くはいかないのが私たちの現実だ。いつまでも暗闇が続くようなこともある。たとえそうであったとしても、その真っ暗闇に中に神は共にいてくれているのだと思う。だから私たちは、何があっても、どこにいても決してひとりぼっちにはならないのだ。