礼拝メッセージより
時代
聖書には飢饉の話しがよく出てくる。アブラハムの時代にも、ヨセフの時代にも、飢饉があってエジプトへ行くというような話しがあった。
イスラエルの辺りはたびたび飢饉が起きるような水に乏しい土地のようだ。聖書には井戸を巡る争いも出てくるけれど、この地方の争いの根本は水なんだと聞いたことがある。
ルツ記も飢饉のためにモアブに移住するというところから話しが始まっている。時代は士師が世を治めていたころ、ということになっている。
旧約聖書に士師記というのがあるが、イスラエルに王が立てられて王国となる少し前ということで、偉大な王であるダビデの祖先の話しということになる。
モアブ
今日の聖書に出てくるモアブは、
『古代イスラエルの東に隣接した地域の古代の地名で、死海の東岸の高原地帯に広がる地域を指す。旧約聖書の創世記ではソドムとゴモラが神から滅ぼされた際に、アブラハムの甥ロトは逃げ出し山中の洞窟に移住したが、ここで娘たちは父を酔わせ近親相姦し、父によって男子を1人ずつ生んだ。長女の息子は「モアブ(父親より)」と名付けられモアブ人の祖となり、また、次女の息子は「ベン・アミ(私の肉親の子)」と名付けられ後にアンモンの人々の祖となったとされている。民数記や士師記などでも、イスラエルとモアブは何度も戦っている。モアブ人は、イスラエル人と血縁関係にあるが、性的に乱れた邪悪な隣国人として度々聖書に登場している。「アンモン人とモアブ人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても、決して主の会衆に加わることはできない」(申命記23:4)とモアブ人とアンモン人とを「神の会衆」から排除しており、モアブが不適当な性行為と関連していることを強調している。おそらくイスラエルのカナン侵攻に対する正当性と、本来同じ民族系統だった周辺民族からの優位性をを主張するために、こうした神話が創られたのだろう。しかしルツ記ではモアブに対してそういった視点は見られない。』
不幸
そのころイスラエルに飢饉があったため、ユダのベツレヘムに住んでいたエリメレクとナオミ夫妻は二人の息子マフロンとキルヨンと共にそのモアブの野に移住する。距離としては100km前後だろうか。エリメレクというのは「神は私の王」というような意味らしいけれど、子供達のマフロンは「病気がち」、キルヨンは「やつれる」というような意味だそうで、いかにも病弱なイメージの名前になっている。
モアブへやってきた家族だったが、その地で父親のエリメレクが死んでしまう。その後息子たちはそれぞれ、オルパとルツというモアブの女性と結婚する。しかしその後二人の息子マフロンとキルヨンも死んでしまう。
希望
しかしナオミはイスラエルの飢饉が終わったことを聞いたので故郷に帰ることにする。すると二人の嫁たちもナオミに付いていく。それが今日の聖書の内容だ。
かすかな希望はベツレヘムへ帰るということしかなかったのかなと思う。聖書には飢饉が終わったことを、「主がその民を顧み、食べ物をお与えになった」と書いてある。
聖書はさらっと書いてあるけれど大変な状況だ。夫を亡くした女性が一人で生きていくのは今よりももっと大変なことだったと思う。そんな未亡人3人だけが残されてしまったわけだ。ここからどうやって生きていけば良いのか、途方に暮れている、そんな状況だったんじゃないかと思う。
ナオミはどんな気持ちでいたんだろうか。飢饉を逃れて外国にやってきた、ところが夫は死んでしまう。子供達も結婚したかと思えば二人共死んでしまう。結局モアブに来てからの10年間は悲しい辛いことばかり、もう耐えられないというような気持ちだったんだろうと思う。
そこに届いたのが地元の飢饉が終わったという知らせだった。主がその民を顧み食べ物をお与えになった、と書いてあるけれど、それは案外ナオミの気持ちだったのかもしれないと思う。ベツレヘムへ帰れる、そこへ帰れば何とかなるかもしれない、神が顧みてくれるかもしれない、そんな気持ちをナオミは持ったんじゃないかなという気がする。
そんな微かな希望を持ってナオミはベツレヘムは向かったんじゃないかなと思う。わずかな希望を持てたからナオミは動き出すことができたんじゃないかなと思う。
苦しいことがあるとそこにばかり目を奪われてしまう。苦しいことが重なると尚更で、自分のまわりには不幸しかないような気にもなってしまう。
でもそうじゃない、どんな大変なことにもかならず抜け道がある、神はその道を準備してくれている、それは最初は微かな希望にしか見えないかもしれない、でも希望を持って進めば、必ず別の世界が待っている、神が別の世界を用意してくれている、ルツ記はそんなことを伝えているのかなと思う。
ナオミが進み先で待っていたものとは、次回のお楽しみ。
ゆっくり
礼拝の聖書箇所は聖書教育という教案に沿ってしているが、どうして今日の箇所で区切るのかとずっと悩んでいた。今も悩んでいる。ルツ記自体そんなに長くもないし、全体を一度に読んだ方がメッセージだってしやすいのにと思っていた、というか思っている。こんな場面設定だけの箇所でなにをメッセージするんだろうと思っていた。
でもそうやってどんどん読み進めていくと、案外ナオミの気持ちがどうだったかなんてことをじっくり考えることはなかったような気もする。考えなくはないし少しは想像もするけれど、ここで敢えて立ち止まることでいつもよりじっくりと考えているような気がする。
聖書ってゆっくり読みべきものなのかもしれないなあ。でもこの箇所でメッセージするのはやっぱりしんどいけれど。だからぼちぼち、じっくり読んでいきましょう。