礼拝メッセージより
傷
小学生の時、校庭でバスケットボールを使って友だちとパスの練習をしていた時だったと思う。かっこつけてやっていて周りがあまり見れてなくて、別に遊んでいた子の足に引っかかって両足の膝をけっこうすりむいて血を流して保健室で治療してもらったことがあった。
しばらくして2、3cmくらいのかさぶたができて、だいぶ治ったかなと思った時に、そのかさぶたに何かがちょっと当たったことがあった。ぶつけたわけではなくてちょっと当たっただけだったのに、その時ちょっと大きな声を出すほどに痛かったのを覚えている。そのあと治りかけてはついついかさぶたを触って剥がしてしまって、今でも傷跡が残っている。
傷ってしっかり治さないと少し当たっただけで痛む。どうやら心の傷もなかなか治らなくて、すこし触れただけでもやっぱり痛むみたいだ。大したことないと思うようなことでも傷を負った人にとってはすごい痛みに感じることがあるんだろうなと思う。
夢解き
7年の豊作の後に7年の飢饉がある、というヨセフの夢の解き明かしを聞いたエジプトの王であるファラオとその家来たちはヨセフの言葉に感心したと書いてある。感心するのはいいけれど、問題はその解き明かしが本当なのかどうか、実際にその通りになるのかどうかなんじゃないのかなあ。それが本当にその通りになるという保障もないのになあ。給仕役の長と料理役の長の夢を解いてその通りになったから、今度もヨセフの解き明かした通りになると思ったんだろうか。それとも神がヨセフを通して語っているのだと信じたということなんだろうか。
いずれにせよ、ファラオはヨセフの言ったとおりになると信じて疑わなかったようで、ヨセフをエジプトの王に次ぐ地位に就けてしまう。そしてヨセフに「ツァファナト・パネア」という名前を与えた。これは「神は語り、生きている」という意味だそうだ。エジプトの高官となるからにはエジプト語の名前が必要だったのだろう。そしてオンの祭司の娘を妻として与え、彼女はマナセとエフライムの二人の息子を産んだ。
ヨセフの解き明かした通りに7年の大豊作があり、その間に穀物を蓄え、その後飢饉が始まると世界各地からエジプトへ穀物を買いに来るようになったという。ヨセフはエジプトの高官としてその穀物を管理したということだ。
傷
冤罪によって監獄に入れられるという不条理を味わったヨセフだったが、神の知恵と神の策略によってエジプトのN0.2の高官に上り詰めた。まあいろいろ大変なことはあったけれど結果が良ければ全て良しということになりそうな気もするんだけれど、ヨセフにとっては案外そうでもないらしい。
長男の名前マナセは忘れさせるという意味で、神がわたしの苦労と父の家のことをすべて忘れさせてくださったと書いてある。苦労を忘れさせてくれたと言うことは、それほどに幸せになったということでもあると思うけれど、忘れさせてくれた内容を覚えているということだと思う。
ちょっと話しは違うけれど、究極の赦しは赦したことさえも忘れてしまうことだと聞いたことがある。赦したことを覚えているということは中途半端に赦しているだけで、完全に赦したときは赦したことさえも覚えていない、神の赦しとはそういうものだと聞いたことがある。
同じように、あの苦労を忘れさせてくれたと言うときには、その苦労をまだまだ覚えているということでもあるのだろう。
また次男のエフライムは増やすという意味で、神は悩みの地でわたしに子孫を増やしてくださった、と書いてある。ヨセフはエジプトで大成功をおさめているように思うけれど、ヨセフにとってエジプトは飽くまでも悩みの地であるということのようだ。
この時ヨセフがどんな気持ちだったかは書かれていないけれど、子供達の名前から想像すると、絶大な権力を手にしているけれど、幸せの絶頂にあるというわけではないようだ。
どれほどの大成功をおさめたとしても、過去に負った傷はそうそう癒せるものではないということなのかなと思う。傷は治っても傷跡は残るように、過去にされた仕打ちや苦しみ、その傷跡はずっと残っていくということなんだろうなと思う。何もなかったのようにはなかなかならない、それが人間というものなんじゃないかなとも思う。
実はヨセフはかつて自分が受けた仕打ちを忘れたいと思ってたのかなという気もする。忘れたいからマナセという名前をつけたのかなという気もする。嫌なことは忘れて、すっきりして、新しい人生を生きたいという思っていたのかもしれない。でもやっぱり赦せないというぬぐいきれない思いがあったんじゃないかなと思う。
赦されないという気持ちもつらいけれど、赦せないという思いをずっと抱えていくのも結構大変なことなんじゃないかと思う。
イエスは七の七十倍までも赦しなさいなんて言ったけれど、実は赦すことで自分自身の中にある重苦しい嫌な思いから解放されたり癒されたりするんじゃないかという気がする。
傷跡
あの時ああしてくれなかったからとか、あの時あんなことされたからとか、いろんな憎々しい思いがあるけれど、それを抱えたままでいると幸せにはなれない、そんな心の傷を癒してこそ初めて幸せになれるということをこのヨセフの物語は伝えているのかもしれないという気がしている。
傷跡になるまで、しっかりと治療しないといけないんだろうなと思う。そしてそれは赦すことかなと思う。責める思いを持つことはその人自身を苦しめることなんじゃないかと思う。
相手を赦すこと、そして自分自身を赦すことで初めて傷は癒されて傷跡となるんじゃないだろうか。