礼拝メッセージより
夢
よく夢を見る。もう何年も進級できなくて、なのに今年の試験も全然解けない、これじゃいつまで経っても卒業できない、なんて夢を見ることがある。それが高校だったり大学だったりする。
ある時、どうしようと思い悩んだまま目が覚めてきて、しばらく自分がどこにいるのか分からないことがあった。少しずつ頭が起きてきて、そうすると高校は卒業したんだ、大学も留年したけど一応卒業した、そうか今は牧師していて呉にいるんだ、とだんだん記憶がよみがえってきて、もう卒業の心配はしなくてもいいだ、と安心したことがあった。
しんどい時はそんなしんどい夢を見るみたい。一所懸命に逃げようとしているのになかなか足が動かないなんてこともあるけれど、夢の中じゃ助けを呼びにいけない。夢を見るときは無防備だから大変だ。夢だと防ぎようもないし。
神が夢を通して何かを伝えるなんてことがあるのかどうか分からないけれど、夢から助けてくれるのは神しかいないような気がする。
ヨセフ
エジプトに連れてこられたヨセフは管理能力を発揮し王の侍従長に重用されるが、その妻の誘惑を断ったことから逆恨みされ監獄に入れられてしまう。しかしそこでも能力を発揮し囚人の管理を任される。
その監獄に入れられた王の給仕役の長と料理役の長の夢を解き、給仕役の長に自分のことを王に伝えてくれと頼む。しかし給仕役の長は自分が解放されるとヨセフのことを忘れてしまう。
夢
それから二年が過ぎ、今度はファラオが夢を見た。
ナイル川のほとりに立っていると、よく肥えた七頭の雌牛が川から上がってきて葦辺で草を食べ始めた。すると今度は醜いやせ細った七頭の雌牛が川から上がってきて、よく肥えた七頭の牛を全部食べてしまった、というものだった。
王はその後もう一つの夢をみた。
太ってよく実った七つの穂が、一本の茎から出ていた。するとその後から、実が入っていない干からびた七つの穂が生えてきて、太って実の入った七つの穂を呑み込んでしまった、というものだった。
王はおかしな夢を見たので心配になって、エジプト中の魔術師や賢者を集めてどういうことかと聞いた。でも誰も説明できる者がいなかった。その時、給仕役の長がヨセフのことを思い出して、牢獄にいたときに自分の夢を解き明かした者がいたということを王に告げた。
そこで王はヨセフを牢獄から呼び出して夢の話しをして、解き明かすようにと言った。ヨセフの説明は、夢は二つとも同じことであって、今後七年間の豊作があり、その後に七年間の飢饉があるということだった。ヨセフは夢の説明だけでなく、そのためにどう対策しないといけないかということまで王に言った。国中に監督官をおいて、豊作の間に食料を蓄えさせておいて、その蓄えで後の飢饉の間をしのぐようにということだった。
主が共に
聖書はヨセフが夢を解き明かしたことも、管理能力を発揮したときも、神が共にいたからだと語る。神が共にいたから夢の解き明かしもでき、人も財産もうまく管理できたのだと語る。(39:2,3,21,23)
エジプトにいるときのヨセフにはいつも神が共にいるようだ。でも神が共にいるからといって、なんでも自分の思い通りに事が運ぶというわけではない。神が共にいたが、ポティファルの妻のうそによってヨセフは監獄に入れられた。神が共にいたが、解放された給仕役の長にはしばらく忘れられてしまった。神が共にいるということと、私たちの願いどおりになんでもことが運ぶというのとは違うらしい。あらゆる不条理から守られるというわけではないらしい。無実の罪で囚われの身になることだってあるのだ。
そんなことがあっていいのだろうか、神が共にいるのにそんなことが許されていいのだろうかと思ってしまう。そんな神なんか信じてられるかという気にもなる。
生まれてからずっと父親に誰よりも大事にされてきたヨセフだった。自分は大事にされて当然、自分の願いは何でも叶うと思うようになっていたのではないかと思う。そしてエジプトでも最初は重用されてうまくいっていた。確かに優れた能力を持っていたのだろうが、かつての夢のように、世の中の誰もが自分の力の前にひれ伏すというような思いになっていたとしても不思議ではない。
しかし彼は無実の罪で牢獄に入れられるという不条理を味わうことになる。ヨセフはそこで初めて自分の人生を振り返ったのではないかと思う。自分がつらい仕打ちにあうことで、父親からあまり大事にされてこなかったという不条理を味わってきている兄たちのことも初めて考えるようになったのではないか、そして人はそんないろんな不条理、納得できないような苦しみや悲しみと共に生きていくのだということをじっくりと考える時だったのではないかと想像する。
詩編105:16-19
105:16 主はこの地に飢饉を呼び/パンの備えをことごとく絶やされたが
105:17 あらかじめひとりの人を遣わしておかれた。奴隷として売られたヨセフ。
105:18 主は、人々が彼を卑しめて足枷をはめ/首に鉄の枷をはめることを許された
105:19 主の仰せが彼を火で練り清め/御言葉が実現するときまで。
詩編は、ヨセフが囚われの身となったのは神が彼を火で練り清めるためだったと語る。練り清められる方はかなりの苦しみだったのだろうが、神は神の計画を実行するためにヨセフを鍛えた、その後エジプトの全てを管理し、周辺の諸国の人たちを飢饉から救うための務めを果たすにふさわしい人間になるようにと鍛えたということらしい。
主が共にいるということは、そんな風に神の計画の中に生かされているということなのだ。主が共にいるというのは、全てが順風満帆で何でも願いどおりに行くということではなくて、ただ神の計画の中に生きているということなのだろう。ヨセフは神の備えた時までそこで待たされた。監獄に入れられていたから待つしかないわけだが、その間苦しみを通して少しずつ磨かれていたのだろう。
私たちも、どうしてこんな苦しいことになるのかと思うことがいっぱいある。何のためなのかさっぱり分からないこともある。でもそれも神の計画の中にあることなのだ。痛みを経験することで初めて人の痛みを想像できる、悲しみを経験することで初めて優しくなれるのも事実だ。
苦しい時は神が誰かのために私たちを鍛えているということかもしれない。私たちが光り輝くように磨いているときなのかもしれない。苦しみや悲しみは私たちが優しさやいたわりを持つようになるためのものなのだろう。
神が私たちに願っているのは、私たちが自分の能力や知識をひけらかしたり、俺たちは本当の神を知っているのだと言って自分の信仰を自慢するなんてことではないだろう。
そうではなく神から与えられた能力や知識や信仰を活かし、隣人をいわたり支えて生きることなんじゃないかと思う。そして神が私たちを大事に思ってくれているように、互いに大事にし合って生きること、それこそが神が私たちに望んでいることなんじゃないかと思う。そしてそんな優しさやいたわり、それこそが一番大切な賜物なんじゃないかと思う。そんな賜物は不条理や苦しみを耐え忍ぶところで磨かれるものなんじゃないかと思う。