礼拝メッセージより
赤信号
車を運転しているとき、なるべく赤信号で止まりたくない。横断歩道の青信号が点滅してるのに、しかもその前方の道は空いているのに、すぐ前の車がとろとろ走っていて、結局車の信号が赤になって止まったりするとイライラする。しかも前の車だけはギリギリ通過したりすると頭にくる。もう少し早くいってくれたら止まらないで行けたのになんて思うことがよくある。
この前運転しているときも同じようなことがあったけれど、次の信号や次の次の信号をどう通過するかというようなことを目論んでいてその通りにならないからイライラするわけで、先のことを目論まずにいればいいんだろうななんて思った。でもついつい目論んでしまう。
運転する時も目論見通り、予定通りはいかないし、それはまた人生でも同じように予定通りはなかなかいかないようだ。
夢
昔は夢は神の啓示だと考えられていたそうで、この物語でもそれが前提となっている。そしてこの夢は将来の起こる出来事を伝えているようだ。
ヨセフはかつては、兄達や両親が自分にひれ伏すというような夢を見たことがあった。けれど今日の箇所では今度は夢を解き明かすようになっている。そんな夢に関する特別な才能を神から与えられていた人だったようだ。
牢獄
ヨセフは39章で侍従長のポティファルの妻に誘惑され、その誘いを断ったために濡れ衣を着せられて監獄に入れられることになった。その監獄は40章では侍従長の家にある牢獄だと書かれている。39章では監獄の監守長がヨセフにそこの囚人を取り仕切るように任せたとある。
40章ではその監獄に給仕役の長と料理役の長が、何をしたかは書かれてないので分からないけれど何かをしでかして侍従長の家の監獄に入れられ、侍従長はヨセフに世話をさせた。
侍従長は自分の妻を誘惑したという名目でヨセフを監獄に入れているはずだけれど、そのヨセフに世話をさせるというのはどういうことなんだろうか。監獄のシステムはどうなってるんだろうか。囚人に囚人の世話をさせるなんてことはあるんだろうか。それともヨセフが特別なんだろうか。
どういうシステムかはよくわからないけれど、ヨセフは給仕役の長と料理役の長と話しが出来る立場にいて、彼らの夢の話しを聞くことになった。夢は神からの啓示と考えられていたわけで、その夢がどういう意味を持つのかと心配になっているけれども、その夢を解き明かしてくれる人がいないということだった。
それを聞いたヨセフが「解き明かしは神がなさることではありませんか。どうかわたしに話してみてください」と言ったと書いてある。解き明かしは神がすることだというのは分かる。どうしてそれを自分に話してみてくれ、ということになるんだろうか。まるでヨセフは自分が神の使いでもあるかのような言い方だなと思う。
このようにヨセフは夢見る少年から、解き明かす青年へと変わってきているようだ。
目論見
二人の夢の内容は、給仕役の長の方はいかにも明るい未来が待っているような内容で、三日後には職務に復帰するということで、一方料理役の長の方はいかにも不吉な内容の夢で、三日後に処刑されるということだった。
そしてヨセフの解き明かした通りになったという話しだ。
ヨセフは給仕役の長に三日後に復職するという話しを伝えたときに、自分のことをファラオに話してこの家から出られるようにしてくれ、私は無理矢理エジプトに連れてこられて、しかも悪いことは何もしていないのに囚われの身となっているんだとお願いした。
ここから早く出たいという気持ちをヨセフも持っていたということだ。どういう形にしろ早く監獄から出たいと思うのは当然だろう。まして冤罪で入れられているとなると尚更だろうなと思う。
ヨセフは辛い苦しい思いを抱えていたということだろう。そして給仕役の長の夢を聞いたときにヨセフはまたとないチャンスと思ったようだ。いつまで続くのか分からない、先の見えないもどかしい状況から抜け出せるのではないかという希望を持って給仕役の長にお願いしたんじゃないかと思う。
ところが給仕役の長はヨセフのことを忘れてしまったというのだ。自分が復職して喜びすぎてヨセフからお願いされていたことをすっかり忘れてしまったということだろうか。
予定
しかしこれも現実によくありそうなことでもあると思う。
人間誰もがいろんな目論見というか予定というか、それを思い描いて生きているわけだ。これがこうなって、それからこうなってと頭の中で思い描いている。ところがそれが思い描いた通りになかなかいかないのが現実だ。
人生は予定通り、目論見通りになんていきゃしない。早く行きたいのに邪魔が入ったり、思ってもない所に行かされたり、病気になったり怪我をしたり、事故に遭ったり、いろんな不具合が起こったり、予定しなかったことや起こって欲しくないことがいっぱい起こるのが人生でもあると思う。
ヨセフは給仕役の長がファラオに自分のことを話してくれて、それで解放されると未来を思い描いていたわけだ。その後どう考えていたのかは分からない。どうやって生まれ故郷に帰ろうかとその道筋を頭の中である程度計画していろいろと思い描いていたんじゃないかと思う。
しかし給仕役の長がヨセフの依頼を忘れてしまったために、ヨセフが思い描いていた計画はすっかり狂ってしまったわけだ。
ヨセフとしてはもうすぐ解放されるという希望を持っていたに違いないと思うけれど、その希望も時がたつにつれて少しずつしぼんでいってんじゃないかなと思う。
神の計画はこの時ヨセフが思い描いていた計画とは違っていたということのようだ。だったら神はその計画を夢に見せてヨセフに教えてあげらたいいのにとも思うけれどそうはしていないようだ。ヨセフにとっては神の遠大な計画は分からない。ヨセフはその後直接ファラオと会うことになる。ヨセフはこの時そんなことは知るよしもなかったのだろうけれど、しかし実はヨセフはその神の遠大な計画の中に生かされていたということを聖書は伝えているようだ。
未定?
私たちも神が私たちにどんな計画を持っているのかよく分からない。どうして今ここで生きているのかわからない。たまたまここにいるのかもしれないけれど、実は私たち一人一人、見えない神の計画によって導かれてここにいるということを聖書は告げているような気がしている。
置かれた所で咲きなさいという本があるけれど、私たちもそれぞれの場所に神に置かれているということなのかなと思う。
もっと金持ちになって有名になって、みんなからちやほやされるような人間になって、みんなに威張っていたいという気持ちというか、そうなる予定だったのだけれど、現実は全然そうなってなくて自分の無力さや無能さを嘆くことばかりだ。
けれど、実は今ここにこうしていることも神の計画の中にあることなのかなと思うとホッとするし元気が出てくる。そしてここで咲けばいいというか、ここで咲くことが大事なんだと言われているような気がして、ちょっと頑張ろうかなという気になってくる。
箴言19:21
「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」(新共同訳)
「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。」(口語訳)
口語訳の方がかっこ良いな。
神の計画の中に生かされているんだから、予定が狂ったと騒いだり、こんなはずじゃなかったと嘆くんじゃなくて、神の計画という大きな流れの中に身を任せて生きていけばいいんだろうなと思う。