礼拝メッセージより
ヨセフ
ヨセフって普通の人ではなかったのかな。兄や父がまるで自分にひれ伏すかのような夢を見て、それをそのまま兄や父に話したことが37章に書かれている。今回そのことが妙にひっかかっている。
そんな夢の話しをこともあろうに兄や父に向かってそのまま話しをするというのは普通ではないという気がする。その時すでに17歳だったと書いてあって、17にもなってそんな話しを聞いた兄達がどう思うか想像も出来なかったのかと不思議な気がしている。自分だけ特別に父親に愛されていて、その上でそんな話しをしたら兄達がどう思うか分からなかったんだろうかと思う。そんな相手の気持ちを察する能力に欠けていたんじゃないかなという気がする。でも一方特殊な能力に長けている、サヴァンのような人だったんじゃないかと思ったりしているけれど、そんな解釈をしている人は今の所見あたらない。全くの見当違いかもしれないけれど。そもそも聖書だけで判断するのは難しいのかな。
エジプトへ
ヨセフは父ヤコブに特別に可愛がられてしまったために兄達から憎まれ、そのためにイシュマエル人によってエジプトへ連れていかれることとなった。そのヨセフを買い取ったのはエジプトの王であるファラオの宮廷の役人で、侍従長のポティファルという人だった。
買い取られたということは奴隷としてということなんだろうか。そこでヨセフは主が共におられと書かれていて、詳しいことは書いてないけれども管理能力があったらしく、それを発揮してポティファルの家の管理を全部任されることになった。奴隷と言うより使用人という感じなのかな。
ヨセフは管理能力があるだけではなく、顔も美しく体つきも優れていたと書かれているが、主人であるポティファルの妻がヨセフのことを気に入ったようで、自分と一緒に寝るようにと迫るようになった。しかしヨセフは主人の妻の誘いを拒否し続けた。そこで妻に逆恨みされてヨセフが誘惑したことにされ、王の囚人をつなぐ監獄に入れられてしまう。
しかしそこでまたヨセフは管理能力を発揮して看守長から囚人の管理を任されることになった、そんな話しだ。
主が共に
今日の箇所に主がヨセフと共におられるということが繰り返し出てくる。ポティファルの家を管理する時と、監獄で囚人たちを管理する時、どちらも主がともにおられてうまく計らったと書いてある。なんだか決まり文句みたいだなという気がしている。
聖書には決まり文句が結構あるなあと思う。祈り会で少し前に士師記を読んでいたけれど、その中に「主の霊が激しく臨んだ」という言葉がよく出てくる。最初は主の霊が激しく臨むというから外から霊がその人に憑依して別人のようになることかと思っていたけれど、主の霊が激しく臨むという時は、その人が相手をやっつけたり物を破壊したりするような時にばかり出てきていて、どうやら人が力を発揮するときに使う決まり文句なんだなと思った。
今日の箇所の主が共におられというのも、ヨセフの管理能力が発揮されたということを言うときの決まり文句なんじゃないかという気がしている。具体的なことを書く代わりに、主が共におられうまく計らわれたと書いているのかなとも思う。本当は具体的にどんなことがあってポティファルや監守長に管理を任せられるようになったのかを知りたいと思う。
もちろん実際には管理能力を発揮する時だけ主が共にいて、それ以外の時は共にいないということではなく、いつも共にいたんだろうと思う。
遠大な計画
かつては兄達を差し置いて父親の寵愛を独り占めしていたヨセフは、家族から離されてエジプトへ売られてしまう。そして今度は冤罪によって監獄へ入れられてしまうこととなった。
主が共におられうまく計らわれたにしては、事態はどんどんと悪い方向へ向かっていっているような感じがする。抜け出せない深みにどんどん落ち込んでいっているかのようだ。
でも実はもっともっと大きな遠大な計画の中にある出来事だったということなんだろうと思う。
いかにもどんどんと深みにはまっているかのようだけれど、実はエジプトの王であるファラオへ、つまりエジプトの権力の中枢へと近づいている、実はその道筋にあったということだと思う。備えられた道筋の途中の出来事だったということのようだ。
勿論この時には誰もそんなことは分からなかっただろう。ヨセフにも分からなかっただろう。分からないまま、ただ深みに落ちていくようなことが起こっていたとするとヨセフにとってはとてもしんどいことだったと思う。
深みの中で
私たちの人生も先が見えない。ただ深みにはまっているようにしか見えない時もある。そんな時は本当に苦しく辛い。
でも聖書はどんな時でも主は共にいて、私たちには見えないけれど、神の計画があって、その見えない計画の中に生かされているんだということを教えてくれているような気がしている。
だから状況が苦しくても、苦しい状況だけに目を奪われずに、大きな計画を持っている神を見上げなさい、いつも共にいてくれている神を感じて生きていなさい、聖書はそう告げているのではないかと思う。
マタイによる福音書の最後にイエスの言葉がある。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
たとえどんな深みに落ち込んだとしても、たとえ世界で独りぼっちになったとしても、私たちにはこのイエスが共にいてくれている。イエスはどんな深みの中でさえも私たちにぴったりと寄り添ってくれているのだ。
そして実は遠大な神の計画の中に私たちを生かしてくれているのではないかと思う。