礼拝メッセージより
気持ち
人の気持ちってなかなか分からない。相手が嬉しいとか悲しいとか言葉にしてくれたら分かったような気にはなるけれど、人の気持ちってそんなに単純な言葉で表現できるようなものじゃないだろうと思う。
実は言葉とは裏腹な気持ちを持っていたりもする。この前京ことばというのがあるとネットで見た。例えば、「元気なお子さんやねえ」というのは、静かにさせろという意味だとか、「お嬢ちゃん、ビアの上手になったなあ」というのは、ピアノがうるさいという意味だなんて書いてあった。本当にそういう意味かどうかはしらないけれど。
やっぱり人の気持ちってのはなかなか分かり辛い。まして聖書に登場する人達の気持ちってのもなかなか分からない。情報が聖書しかなくて少ないし。結局は想像するしかない所も多い。その人の立場に立って考えないとなかなか分からないような気がする。
それは実際に目に前にいる人に対しても同じなんだろうなとは思う。
夢
父のヤコブがヨセフだけを特別に大事にすることで兄たちはヨセフを憎むようになった。しかもヨセフは父親に兄たちのことを告げ口するようなところもあり、また兄達や父も自分にひれ伏すと言わんばかりの夢を見ては、そのことを当人たちに話すなんてこともあり、兄達は余計にヨセフが憎らしくなっていたようだ。
兄たちはそれを聞いてヨセフを殺してしまおうと相談するようになった。そして絶好の機会がやってきた。それが今日の聖書箇所だ。
温度差
兄たちのヨセフに対する思いはそれぞれ温度差があるようだ。今日の箇所に登場するルベンはヨセフのことをどう思っていたんだろうか。ヨセフを殺そうとする他の兄弟を諫めている。ちょっと懲らしめればヨセフも偉そうな態度は取らなくなるんじゃないかと考えていのかなと思う。
ルベンは長男として兄弟を守ろうという気持ちもあったんだろうか。そもそもヤコブはルベンに長男としての役割を期待していたんだろうか。そしてルベンもそんな期待に応えようとしたのだろうか。
35:22「ルベンは父ヤコブの側女ビルハのところへ入って寝た。このことはイスラエル(ヤコブ)の耳にも入った。」とあるが、そのために父に負い目があり、その負い目を払拭しようという気持ちだったのだろうか。
兎に角兄弟たちはルベンの提案を聞き入れてヨセフの命を奪うことはやめにして、ヤコブがヨセフに着せていた裾の長い晴れ着をはぎ取って穴に投げ入れ、食事をしながらどうするか考えようとしたらしい。穴に投げ込んだことで、殺してしまえという高ぶった気持ちも少しは落ち着いたのかもしれない。
丁度イシュマエル人の隊商がやってきていたのを見て、ヨセフを殺しても何の得にもならない、売り飛ばした方が得になる、なんていうことを話している。そんな話しをしている間にミディアン人の商人がヨセフを穴から引き上げてイシュマエル人に売ってしまったと言うのだ。それに気付かないほど離れたところで食事をしたんだろうか。
穴の中のヨセフがいなくなったことを知ったルベンは自分の衣を引き裂いたとある。衣を引き裂くのは嘆き悲しんだということだ。ルベンはどうしてそんなことしたんだろうか。その時どんな気持ちだったんだろうか。
すぐにさらわれたと思ったんだろう。一人で逃げたとは思わなかったんだろうか。或いは誰かに助けられて逃げ帰ったと思わなかったんだろうか。
そもそも命を助けるのはいいけれど、その後ヨセフがヤコブの元に帰ったら今回の出来事をまた告げ口するに決まっていると思わなかったんだろうか。ルベンはヨセフをどうしようと思っていたんだろうか。まだ何も考えてなかったんだろうか。
兄弟たちはどうやらヨセフがさらわれたてどこかへ連れて行かれたと思ったらしくて、ヨセフが獣に襲われたということにしようと企んで、ヨセフの裾の長い晴れ着に雄山羊の血をつけて、それをヤコブの元へ送り届けたというわけだ。これは見つけたけれどヨセフの着物でしょうか、なんていうのはなかなか強かだなと思う。ヤコブはまんまと騙されて兄弟たちの思惑通り、野獣に殺されたと思い込んだ。
ヤコブ
父のヤコブはヨセフが死んだと思って衣を引き裂き、粗布をまとって誰からの慰めをも拒否して嘆き悲しむばかりだった。自分も死んでヨセフのところへ行こうと泣いて泣いて、というようなことになったらしい。
ヤコブが慰められることを拒んだと書いてあるけれど、慰めるというのは喪が明けるという意味だそうで、子供達がずっと喪に服しているヤコブの喪を終わらせようとしたけれどヤコブがそれを拒否したということだそうだ。
結局ヤコブは生きていても、死んでしまっても、結局ヨセフ、ヨセフということだったようだ。
そんな父親を見ている兄たちの気持ちはどうだったんだろうかと思う。最初はうまく騙せてホッとしてんじゃないかと思う。憎らしいヨセフもいなくなってすっきりしたり、でもいざ居なくなってしまうと心配になったりというような兄達もいたんじゃないかと思う。でもヨセフがいなくなることで少しは自分達に目が向くことを期待していたとしたら、いつまでもいつまでも喪に服す父親を見ていると、父親に対して、またヨセフに対しての憎しみが甦ってくるような思いになったんじゃないかなと思う。
どろどろ
気持ちは本当によく分からないし、想像するしかない面も多いし、全く筋違いの想像をしているのかもしれないとも思う。
この物語から私たちはなにを聴き取ればいいんだろうかと思う。どろどろしたグチャグチャな家族だなと思う。人間の心にはそんなどろどろした面があるのも事実だろうと思うし、そういうこともちゃんと分かってないといけないし、そういう面もちゃんと見つめたり受け止めたりしないといけないということかなとも思う。
そしてどろどろした人間関係の中にも、どろどろした思いの中にも、神の導きはあるんだということなのかなという気もする。案外そういう人を憎んだり、嫌ったり、愛せない、赦せない、そんな正直な心の中でこそ、神の言葉は輝きを放つということなのかなとも思う。