礼拝メッセージより
真実
聖書は良いことばかりではなくて人間の良い面だけではなくて悪い面も書いている、表も裏も書いている、綺麗事ばかりではないというようなことを聞く。確かにそうだなと思う。でもどこかで聖書に登場する中心人物はやっぱり特別な人なんじゃないか、自分とは違う信仰心のあるいい人に違いないという気持ちもあって、そういう前提で読んでいることがあるような気がしている。
アブラハム、イサク、ヤコブなどの族長と言われる人たちも、時にはおかしなことをするけれど基本的には信仰深い正しい人たちである、だから神さまに祝福されたと思っていた。でも聖書をよく見ると、簡単に信仰深く正しい人たちとは言えないという気がしている。優れた夫、優れた父親ではなかったようだ。
今日の聖書に登場するヤコブの家庭も、今で言えば機能不全の家族といったようなものだった。もともとは祖父のアブラハムの時代からいろんな問題を抱えていた家庭だったようだ。
12人
ヤコブが父のイサクと兄のエサウを騙したために、ラバンおじさんのところへ逃げていたとき、ラバンの娘であるラケルのことが好きになり、ラケルと結婚するために7年間伯父の下で働くことになった。ところが7年間経ったとき、ラバンはラケルの姉であるレアをヤコブと結婚させる。結婚式は、夜新婦をヴェールで覆ったまま新郎の下へ連れて行くのだそうだ。父と兄を騙したヤコブがここでは伯父に騙され、本来好きでもないレアと結婚させられてしまう。妹を先に結婚させることはできないというのがラバンの言い訳だった。ラバンは、兎に角レアとの婚礼の祝いを済ませなさい、それがが終わってからラケルとも結婚させるという。一週間の祝いを済ませた後、ヤコブは本当に好きだったラケルと結婚する。レアとラケルはそれぞれジルパとビルハという召使いを付けられていた。
ヤコブは当然の如くレアよりもラケルを愛した。ところがラケルにはなかなかこどもが生まれず、レアの方には3人の男の子が生まれた。するとラケルは自分の召使いであるビルハにこどもを生ませようと計画し、ビルハは二人の男の子を生んだ。そうするとしばらくこどもが生まれなかったレアも、自分にはもうこどもができないようだと思って、自分の召使いのジルパに生ませようとして、ジルパも二人の男の子を生んだ。
その後こどもを生めないと思っていたレアは二人の男の子と一人の女の子を産んだ。その後になってやっとラケルも男の子を生んだ。それがヨセフだった。ラケルはその後にもう一人ベニヤミンという男の子を生むが、出産後に死んでしまう。
ヤコブの子ども達はそんな風に4人の母親の子ども達だった。そして父親のヤコブは自分の好きだったラケルが、結婚して随分たってからヨセフを生んでからは、殊の外ヨセフを可愛がった。ヨセフには裾の長い晴れ着を着せたという。それは王に仕える高官が着るようなものだったそうだ。
いろんな諍いがある母親たちだから、当然子ども達にもそれが影響していただろう。その上父親はヨセフばかり特別に可愛がるとなり、兄たちはヨセフを憎むようになった。当然の成り行きというか、元々はヤコブや母親たちがまいた種という気がする。
夢
ヨセフは、畑で自分の束がたちあがり、兄たちの束が周りに集まってきて自分の束にひれ伏したとか、太陽と月と11の星が自分にひれ伏したとか、いかにも兄たちや父までもが自分にひれ伏すというような夢を見る。しかもそれを黙っておけばいいのに当人である兄や父にもそのまま喋ったというのだ。ヨセフはその話しを聞く兄や父がどう思うのかということに無頓着というか、相手がどう思うかということに考えが及ばない人間だったのではないかと思う。
見えない計画
聖書は信仰心が篤くて正しく罪がない人たちの物語ではないようだ。罪があってもそれを悔い改めて正しく生きるようになった人たちの物語というわけでもないようだ。そんな私たちとはかけ離れたきよい人達の物語ではない。私たちと同じように生きていく上でいろんな間違いを犯し失敗ばかりしている人達の物語であるように思う。
ヤコブも息子たちもいろんな間違いを犯し、いろんな人を傷つけている。人間が生きていく上ではほとんど仕方ないことだ。実は彼らは私たちとほとんど変わらない人間なのではないかという気がしている。聖書はそんな人間に関わり続けた神の記録なのではないかと思う。
間違ったり失敗したり挫折ばかりの私たちの人生だ。そんな人生に神は関わり続けるということを伝えてくれているようだ。あるいはどれもこれも神の計画なのかもしれないという気もする。でもそれを私たちは前もって知ることはできないようだ。振り返ってみて初めてわかるような、そんな計画のような気がする。
そんな大きな計画の中に私たちも生かされている。どんな計画なのか私たちには見えないようだ。しかし神がその大きな計画の中に私たちを生かしてくれていることを知りつつ生きていくのと、知らないで生きていくのとは随分違った生き方になる。
新約聖書では、聖霊は「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事は益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマの信徒への手紙8:28)とある。
自分のしでかした過ちのために私たちはいろんな問題に直面しながら生きている。あの時あんなこと言わなければ良かった、あんなことしなければ良かったとか、あの時こう言ってあげればよかった、このようにしてあげればよかった、そんな後悔がいっぱいある。そして時としてそんな思いが私たちを苦しめる。しかしそんな私たちにも、神の霊が、神の力が、万事が益となるように働いてくれるなら本当に嬉しいことだ。
自分の過ちを正当化することはとんでもない間違いだと思うけれど、過ちをも神が用いてくれるとするなら、それを益と変えてくれるならば、その過ちにいつまでも縛られることはないのだと思う。
万事を益とするから、あなたは自分の過ちに縛り付けられないで、しがみつかないで、いつまでも後悔するのではなくて、前を向いて生きていきなさい、神のそんな声が聞こえてくるような気がしている。
だから私たちは神を見上げて、神に聞きつつ安心して生きていくのだ。