礼拝メッセージより
糞土
今日の聖書箇所の少し前の3:8に「塵あくた」という言葉がある。パウロは自分が正統なユダヤ人として生まれて、誰に対しても誇れるように立派に生きてきた、しかしイエス・キリストと出会うことで全てを失った。しかしイエス・キリストを知ることの、あまりのすばらしさのために、それまでの誇りも塵あくたと見なしている、と語っている。
ここを読むと昔通ってた教会にいた宣教師の逸話をいつも思い出す。その宣教師がニコニコしながらそこの教会の人に向かって、聖書の中にうんこと書いてあると話したというのだ。何のことかと思ったら、このフィリピ3:8の「塵あくた」という言葉は、以前使ってた口語訳では「糞土」となっていて、その糞という言葉を見つけた宣教師が喜んだという話しだった。
完全な者
今日の箇所には完全な者という言葉が出てくる。自分は完全な者であると思っている人達がいたようだ。
でもパウロはそのような人達のことを、キリストの十字架に敵対して歩んでいて、彼らの行き着くところは滅びである、彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていないと言います。
守るべきことと言われていることを全部守っているから完全だと主張していたのかなと思う。テストで100点を取るような感覚なんだろうと思う。私は守るべき律法を完全に守っている完全な人間である、と主張していたんじゃないかなと思う。
パウロは完全な者たちのことをかつての自分自身と重ねているような気もする。律法を守ることで自分が完全になっているとパウロも思っていたんだろうと思う。つまり自分の力、自分の頑張りで完全に者となれていると思っていたんだろうと思う。3:5以下のところでパウロは自分のことを「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」と書いている。パウロはかつてはそのことを誇りに思っていたのだろう。そうやって頑張って律法を守ることで義とみとめられる、つまり神との正しい関係が持てる、持てているはずと思っていたんだろうと思う。
割礼も大事だと主張する人達、律法を守ることも大事だと主張する人達、そんな人達に、かつての自分の面影を見ているような気もしている。
しかしパウロはイエス・キリストと出会うことでひっくり返されたようだ。イエス・キリストを知ったことで、その喜びを知ったことで、かつての誇りは塵芥、糞土のようにさえ思えてきているようだ。
愛される
パウロがかつて誇りとしていたものに変わって何を得たのだろうか。3:9でパウロは「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」と語っている。パウロは自分が律法を守ることで義とされている、神との正しい関係になれていると思っていたが実はそうではなかったと言っているようだ。自分が頑張って努力して手に入れる義ではなく、キリストへの信仰の義、神から与えられる義というものがあった、そしてそれこそが本物の義だと言っているようだ。
つまり神との正しい関係というものは、人間が立派に律法を守るとか、正しく生きるとか、そんな人間側の努力とか頑張りによって手に入れられるものではない、神との正しい関係は神から与えられるものだと言っているように思う。 パウロはイエス・キリストを知ることでそのことを知り、神から与えられるものを今も追い求めていると語っているようだ。目標を目指してひたすら走るなんて言い方をしているけれど、必死に追い求めて初めて手に入れることができるからそうしているということではないだろうと思う。それはかつてのパウロの姿だろうと思う。必死に追い求めないと得られないからそうするのではなく、すばらしいものを神が与えようとしてくれているから、できるだけ多くそれを貰いたいというような気持ちなんだろうと思う。
パウロは既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけではなく、何とかして捕らえようと努めている、自分がキリスト・イエスに捕らえられているからだという。
パウロは何を捕らえようとしているのだろうか。それは愛ではないかという気がしている。イエス・キリストに愛されているから、そのことを知ったからその愛をもっと捕らえたい、まだ完全に知ってはいないから、愛されていることをもっともっと知りたい、そう言っているんじゃないかなと思う。
喜びの素
「それでは駄目だ」、「まだまだ駄目だ」、誰もがそんな言葉によって苦しめられている。聞くところによると日本は特にそんな言葉が蔓延しているみたいだ。学校でも会社でも駄目なところばかり指摘されて褒められるなんてことはほとんどなかったように思う。
教会でもそうかもしれない。礼拝を休んでは駄目だ、もっと献金しないと駄目だ、もっと祈らないと駄目だ、もっと聖書読まないと駄目だ、もっと奉仕しないと駄目だ、こんなことでは駄目だ、、、。誰かに言われてもないのにそんな声が頭の中にこだましている。
それは律法を守らなければ駄目だ、割礼を受けなければ駄目だという声ととても似ているように思う。
駄目だ、駄目だと思う時、それは結局は自分のことしか見ていない。イエス・キリストは自分のことを駄目だ駄目だと思っているそんな私たちに向かって、駄目じゃない、駄目じゃない、あなたはすばらしい、と繰り返し語っているように思う。
私はそんなあなたが大切だ、そんなあなたを愛している、パウロはそんなイエス・キリストの言葉を聞いたんだろうと思う。徹底的に自分のことを愛してくれる、徹底的に自分のことを肯定してくれる、そんなイエス・キリストに会ったからパウロはどこにいても、獄中に居ても喜びを持っているのだと思う。徹底的に愛され、徹底的に肯定される、そこに喜びの素があるんだと思う。
だからパウロはそのことをもっと知りたい、その愛をもっと受けたいと求めているんだと思う。フィリピの教会の人たちに自分に倣う者となりなさい、と言うのは、自分のようにイエス・キリストの愛を知って欲しい、もっともっと求めて欲しい、そしてもっともっと喜んで欲しい、そう願っているということなんじゃないかと思う。