礼拝メッセージより
フィリピ
この手紙は獄中からパウロが出したものだが、それがどこからかははっきりしない。送り先であるフィリピ教会は、「贈り物」をエパフロディトに託して、獄中のパウロに送った(4:18)。エパフロディトは単なる使者としての務めだけでなく、パウロの身の回りの世話をするはずであったらしい。しかし瀕死の重病にになってしまった(2:26-27、30)。病気が治り次第、心配しているフィリピに彼を送り返すことにし、その時にパウロはこの手紙を託したらしい(2:28-29)
投獄
パウロが投獄されたという情報はフィリピの教会の人々にも衝撃を与えたと思われる。そしてそれは福音の敗北、後退と考える人も多くいたようだ。そんな人達に向けての手紙でもあるようだ。
パウロは自分の投獄が福音の敗北でも後退でもなく、「かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」と語っている。投獄されたことで兵衛全体にキリストのことが知られるようになり、投獄されたことで兄弟たちの多くの者が勇敢に御言葉を語るようになった、と言うのだ。
キリストを宣べ伝えるのに、愛の動機からする者もいるが、自分の利益を求めて獄中のパウロをいっそう苦しめようという動機からキリストを告げ知らせている者もいる、という。パウロをいっそう苦しめるためにキリストを告げ知らせるとはどういうことなんだろうか。パウロよりも賞賛を集めるようになることで、パウロの自尊心をぐらつかせようとしているということなんだろうか。具体的にはどういうことかは分からないけれど、兎に角どちらにしてもキリストが告げ知らされているのであるから、それは喜ばしいことだ、と言うのだ。
福音
しかしどうしてキリストを告げ知らせないといけないのだろう。どうして伝道しないといけないのだろう。キリストを伝えるなんてできないよ、と思う。
ある注解書には、「キリスト者は、たとえ自分がどのように信仰の弱い非力なものであっても(我々はそれ以外の何であろう!)、自分の存在を「福音」の「前進」と無関係の存在と考えたり、また自分の非力のゆに「福音」を「前進」せしめることが出来ないでいると考えて悲観したり絶望したり無力になってはならない。「福音」の「前進」と無関係のところにいるキリスト者というものはひとりもいないのである。キリスト者が何もしなくても「福音」はひとり「前進」するのである。」と書いてあった。
前進
困難なことを乗り越えながら福音を広めていかないといけないと思っているし、そんな困難を乗り越えていないから広められていない、ように思っているけれど、実際はどうなのだろうか。
礼拝の人数は少ないし、会計も大変だし、なんだか自分の駄目さと無能さを突きつけられているようで、だからと言ってそれを乗り越えていく知恵も力も持ち合わせてはいないと思うし、悲観的な現実に元気をなくしているというのが正直なところだ。
先の注解者が言うように、本当に福音はこんな自分を包み込んで前進していくのだろうか、前進しているのだろうか。溜め息ばかりついているけれど、溜め息をものともせず前進しているのだろうか。
本当にそうならば、溜め息なんてものともせず前進するのならば、いっぱい溜め息ついてもいいってことなんだろうか。いっぱい溜め息ついて、その溜め息ごと前進させてもらえばいいということなんだろうか。
否定
自分は駄目だ、こんな自分では駄目だと自分を悲観し否定的に見てしまうことが多い。思うようにいかないことが重なるとお先真っ暗に思えてしまう。
身体の調子が悪くなったり、面倒なことが起こったり、苦しいことが続けて起こると尚更だ。
しかし先の注解者は、福音は前進する、キリスト者が何をしなくても、僕たちを包み込んで前進する、なんてことを言っている。じゃあどうして礼拝の人数も献金も減るんだろうかなんて思いつつ、でもそのことにばかり捕らわれているから、そこばかりに目を奪われているから悲観的になっているのかもしれないなと思う。
目に見えるものは後退しているように見えたとしても、それでも福音は前進しているということなんだろうか。そう思うとちょっとホットしている。ちょっと元気が出てくるような気がする。
身を任せて
パウロは、「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています」と言っている。キリストがあがめられることが第一なのだ、なんてどうして言えるのだろうか。それも捕らわれて投獄されている時になんでこんなこと言えるんだろうか。
パウロは何か違うものを見ているのだろうと思う。厳しい現実だけに目を奪われてはいなかった。他の人達とは違うものを見ていたのだろうと思う。つまりパウロはいつもイエスを見ているような気がする。
囚われの身となったとしたら、自由がなくなってしまったとか、予定が全部狂ってしまったとか、そんな無くしたなくしたものばかりに目を奪われてしまいそうだ。パウロだって捕らわれる前にはいろんな心づもりがあったと思う。これからあそこに行ってここに行って、そこで誰それと会って、というようなことを考えていたと思う。そんな予定も狂ってしまったに違いないと思う。普通はそこで嘆いたり悲しんだりするのが関の山だ。けれどもパウロは囚われの身となっても、無くしたものや狂った予定を嘆き悲しむよりも、そこに共に居てくれているイエスが見えているんじゃないかという気がしている。だから予定が狂っても慌てることなく、落ち着いて先のことを考えることが出来ているように思う。そこでそれまで思い描いていたものとは違う別の道を探すことが出来ているというか、別の道が用意されていることに気が付くことができているように思う。
それもこれもイエスが、十字架のイエスがいつも見えているから、いつも共に居てくれているからなんだろうと思う。
だからそのイエスを知って欲しい、たとえ囚われの身となっても、このイエスを知ってもらえることこそが嬉しいことだ、喜びだ、とパウロは言っているようだ。
悲観的な出来事や思うようにいかない事柄に目を奪われてしまい、キリストを見なくなってしまう、キリストが見えなくなってしまうこともあるかもしれない。しかしどんな時でもキリストが共に居てくれていることを忘れないで欲しい、思い出して欲しい、そんな時こそキリストを見てほしい、キリストと共に生きてほしい、このキリストに身を任せれば大丈夫だから、そう言われているのではないか。