礼拝メッセージより
「足りない?」 2019年5月12日
聖書:ガラテヤの信徒への手紙3章1-6、26-29節
聖書はこちらからどうぞ。
(日本聖書協会のHP)
こども
小学3年位の時だったに我が家にカラーテレビがやってきたような記憶がある。その地域では割りと早い方だったように思う。そのせいではないけれど根っからのテレビ少年だった。学校では1日1時間だったか2時間だったか、それ以上見てはいけませんというようなことを言われていたけれど、大体毎日もっと長い時間テレビ見てた。
そんなテレビっ子だったのに、最近はテレビよりネットを見てることの方が多くなってしまった。この頃はテレビでもネットでこんな情報があったというようなことを放送しているみたいだけれど、ネットの方がいろんな情報がいっぱいある。それにネットだと普通にパッと見れる情報を、テレビだと「驚きの」とか「衝撃の」なんて余計な字幕をつけて勿体ぶって、しかも肝腎のところを隠したり映す前にコマーシャル入れたり、芸人のびっくりする顔を入れたりしていて、そういうのが鼻についてしまってというか、見てる側がバカにされてるような気がして、昔はあんなにテレビばかり見てたのにだんだんテレビ離れが進んでいる。
それでネットを見る方が多くなってきているけれど、それを見ているとテレビだと2時間ドラマになるような話しがいっぱい出ている。世の中にはいろんな苦しいことや大変なことを経験している人がいっぱいいるんだなと改めて思わされる。テレビだと一つの話しに2時間かかったりするけれど、ネットだと同じ時間でいろんな話しが見れる。
この前も、自分の兄夫婦が交通事故でいっぺんに亡くなってしまって、残された娘二人をどうするかと揉めたけれど、結局弟夫婦が引き取ったなんて話しが出ていた。妹の方は割りと早く自分のことをパパと言ってくれたが、姉の方はなかなか言ってくれず、結婚する時に手紙をくれて、その時に初めてパパと書いてあった、なんて話しがあった。親と一緒に暮らすのが当たり前のように思っているけれど、そうじゃない人たちもいるんだなと改めて知らされた。
パウロ
今日もガラテヤの信徒への手紙だけれど、パウロの言うことはわかりにくいなと思う。パウロは頭が良すぎて、ぼんくらな自分には分からないのかなという気がしている。でもどうにかパウロの言いたいことを知りたいという気持ちでいる。
アブラハム
パウロの去った後からガラテヤの教会にやってきた者たちは、異邦人も割礼を受けなければいけない、律法も大事だと、律法も守らないと救われないと伝えていたようだ。
パウロはそのことに真っ向から反対する。何よりも信仰が大事だという。
そこでパウロは律法より前に信仰があることをアブラハムの話しを出して語る。
アブラハムは「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(創世記12:3)と言う神の言葉を聞き、故郷であるウルからカナンの地へと旅だった。そして自分の子供が生まれる前に、あなたの子孫は星のように多くなるという神の約束を聞き、「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記15:6)と書かれている。
律法はアブラハムよりももっと後のモーセの時代に与えられたと書かれている。律法が与えられるずっと前に生きていたアブラハムだったが、そのアブラハムは神の言葉を信じたことで義と認められているじゃないか、とパウロは語る。律法を守ることで義と認められるのではなく、信じるだけで既に義と認められるのだと言うわけだ。
あなたがたはイエス・キリストを信じた、そのことですでに義と認められているのに、どうして律法によって、割礼という身体にしるしをつけることで完成させようとするのかと言っているようだ。そのことを「霊によってはじめたのに肉によって仕上げようとする」と言っているようだ。
神の子
信じることでもうすでに義とされている、神との正しい関係を持つ者とされている、すでに神の子とされているということだ。今から努力して神の子となるのではない、神の子となるためにしなければならない何かがあるわけではない、もうすでに神の子とされているんだから、とパウロは言う。
もうすでに神の子なのか、それとも今から神の子を目指すのか、そこが根本的な違いなんだろうと思う。
神の子とされたからそのことを喜びとして生きるのか、神の子とされるためにもっと何かをしないといけないと思っているのとは大違いだ。
最初に話した弟夫婦に引き取られた子供達のことと似ている気がしている。もうすでに弟夫婦の子供とされている。けれど子供自身がそのことを受け入れるかどうかによって生き方が変わってくるだろうと思う。子供にされたことを喜んで感謝して生きていくのか、それだけではダメだ、本当に子供とされるためには立派にぬかりなくという気持ちで生きていくのか、その違いは大きいだろうと思う。例えば同じ手伝いをするにしても、子供として手伝いをするのと、子供にしてもらうために手伝いをするのとでは、その気持ちは全然違うだろうと思う。
パウロは、あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです、と語る。あなたたちはこれから何かをして神の子とされるのではない、律法を守って、割礼を受けて神の子となるのではないのだ、もう神の子とされている、だからそのことを受け入れる、認めるだけだ、と言う。
足りない?
でも私も何かが足りないじゃないか、と思うことが多いのではないか。
ある牧師が、「信仰が熱心なのは、もちろん悪いことではありません。しかし、ともすると、自分の信仰の熱心さが信仰生活を測る物差しのようになってしまうことがあるのです。そして、いろいろな出来事が起こったとき、自分の信仰の度合いによって判断してしまうことがあるのです。物事がうまくいけば、自分に信仰があったからだと思い、物事がうまくいかないと自分の信仰が弱いからだとか不信仰だからだ、と落ち込んでしまうのです。自分の信仰の出来不出来が人生の完成に影響があるように錯覚してしまうのです。それでは、パウロに「御霊で始まったあなたがたは、肉によって完成していようとしていませんか」と言われてしまうでしょうね。」と書いてあったけれど、確かにそうかなと思う。
私たちも神の子とされるためにまだまだ足りないと思う、こんなことではだめだと思う。けれどイエスはそんなこと言っていない。不完全な不信仰な私たちだ。しかしそんな私たちをイエスはそのままに、全面的に受け止めてくれている。
ナルドの香油をイエスにぶちまけた女性のことを思い出す。彼女は人生ぼろぼろだったんだろうと思う。そこで高価な香油をイエスにぶちまけた。きっと人生そのものをぶちまけたような気持ちでの滅茶苦茶なだったのではないかと思う。しかしイエスはそんな滅茶苦茶な行為に対して、この人は良いことをした、と全面的に肯定した。
なにかにつけてまだまだ足りないと思ってしまう私たちのことを全部知った上で、イエスはそんな私たちを全面的に受け止めて神の子としてくれているのだ。だからこそそのことを揺るがすことにパウロは真っ向から反対しているのだと思う。
パウロのその強い思い、またイエスの思いをしっかりと聞いていきたいと思う。