礼拝メッセージより
背景
・パウロはバルナバによりアンティオキア教会に招かれ、宣教の働きを始めた。アンティオキアにはユダヤ人もギリシア人もいたが、お互いの差異に関らず信徒の交わりが行われ、人々は始めて「キリスト者」と呼ばれた。ユダヤ教から独立したキリスト教会の成立である。
−使徒11:25-26「バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである」。
・しかし、ユダヤ教の支配下にあったエルサレム教会の指導者たちは、「異邦人も割礼を受けて律法を守らなければいけない」と主張を続け、教会に混乱が起きた。バルナバとパウロは問題を話し合うためにエルサレムに行った。紀元49年頃に開催されたエルサレム使徒会議である。
−使徒15:1-2「ある人々がユダヤから下って来て『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった」。
・これがガラテヤ2章にある問題の背景だ。異邦人が救われるためには、「ユダヤ人と同じように割礼を受けることが必要なのか」という議論である。ガラテヤ教会の人々も、割礼を求めるエルサレム教会からの圧力で混乱していた。そのガラテヤの人々にパウロは使徒会議で起こった出来事を報告している。
・会議では異邦人に割礼を強要しないことが決められ、ペテロにはユダヤ人への宣教の業が、パウロには異邦人への宣教の業が委ねられることになった。
(篠崎キリスト教会のHP「みんなの証」より)
割礼
そのことが2章の1-10節に書かれているようだ。
会議では割礼を強要しないことになったけれども、どうもそれに納得しないユダヤ人たちがいたということだ。あるいはユダヤ人にとってはそれはなかなか納得できないことだったのかもしれないと思う。理屈では分かっていても感情がついていかない、というようなことなのかもしれない。
その後ケファがアンティオキアにやってきた時の話しが今日の聖書箇所になる。ケファとはペトロのこと。ケファとはアラム語で岩という意味で、そのギリシャ語がペトロだそうだ。
ケファは最初は異邦人と一緒に食事をしていたのに、ヤコブのもとからある人々がやってくると一緒に食事をしなくなった。ヤコブというのはイエスの弟のことでエルサレム教会の中心人物だったようで、つまりケファはエルサレム教会から、救われるには割礼も必要であると主張する人達がやってくると、異邦人と一緒に食事をとらなくなってしまったようだ。そしてそのことをパウロはケファに面と向かって反対したという話しだ。
「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」と。
義とされる
それに続いてパウロは15節以下の所で自分の考えを述べる。
分かるような分からないような文章が続いていてどうしたもんかと思っている。人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる、というようなことが書いてあるけれど、そもそも義とされるとはどういうことなんだろうかと思う。義というのは正しいということだろうから、正しい者とされるということかなという気はするけれど、正しい者とされるというのはどういうことなんだろうか。
色んな人の説教なんかを見ていると、ある人が義とされるというのは、神との関係が正されるということだと書いていた。つまり義とされるというのは正しい人間とされるとか正しい人間と見なされるということよりも、神との関係が正しくなる、正常な関係を持つようにされるというようなことだと言っているようで、そう言われると分かりやすいような気がする。
律法を守ることで神との正常な関係を持つことはできない、ただイエス・キリストを信じることで神との正常な関係を持つことができるはずではなかったのか、なのにどうしてまた律法を守ることにこだわるのか、どうしてまた逆戻りするのか、とパウロは言っているようだ。
受けること
パウロはユダヤ人として一所懸命に律法を守ってきたようだ。恐らく命がけでそれを貫いてきていたんじゃないかと思う。でもそれは自分で自分を正しくしようとすること、自分の力で神との正しい関係を造り上げようとすることでもあったんだろうと思う。でもパウロは結局は安心できなかったんじゃないかと思う。
しかしイエス・キリストのことを知ることで、イエス・キリストと出会うことで変えられたんだろうと思う。パウロはイエス・キリストの愛を知り、愛を受け取ったんだろうと思う。イエス・キリストの方から手が差し伸べられていることを知り、その手に抱きかかえられているということを知ったんだろうと思う。
人間が律法を守っているかどうか、正しい行いをしているかどうか、正しい人間になっているかどうか、そんなことよりも、それよりも何よりも神の方から人間との関係を持ってくれている、パウロはそう言っているように思う。
だから、ただイエス・キリストを信じることで義とされる、神との正しい関係を持つことができていると言っているのだろう。
イエス・キリストの愛を全身で受け止めているからこそ、パウロはキリストがわたしの内に生きていると言っているんじゃないかな。それはつまりキリストの愛が自分の中に満ちているというようなことでもあるんだろうと思う。そしてパウロはそのキリストの愛に突き動かされて生きるようになったんだろうなと思う。
パウロはそんな自分の熱い思いをなんとか知って欲しいと手紙を書いているんだろうなと思う。そのパウロの思いをこの手紙から感じとっていきたいと思う。