礼拝メッセージより
手紙
今日からパウロの手紙を見ていくけれど、パウロの手紙はなんだかよくわからないと思うことが多い。パウロはどうやら目があまりよくなかったみたいで、パウロの手紙はパウロが語ったことを他の人が書いていたようだ。口述筆記というやつらしい。多分そんな所為もあって、話しているうちに別のテーマの話しを初めて、また別のテーマに移って、というように話しがあっちこっちに飛ぶことがよくあるみたい。なので読むときにもそのつもりで読んだ方がいいような気がしている。礼拝のメッセージもあっちこっち飛ぶのでそのつもりで聞いてください。
背景
ガラテヤは、現在のトルコの中央部、首都アンカラとその周辺と考えられている。パウロはガラテヤ地方を二度訪れているようだ。
一回目にパウロがガラテヤに到着したときのことをこの手紙の4章で、身体が弱っていて、人々に試練となるようなことがあったと書いてある。(ガラテヤ4:13-14)。それにもかからわず、ガラテヤの人々は彼の語る自由の福音に積極的に心を開き、これを受け入れ、信仰の道に励むようになった。そして二回目の訪問では彼らの堅実な信仰の歩みを確認したようだ。
ところが二回目の訪問の直後、ユダヤ教的律法主義に立つ伝道者たちが、ガラテヤに入った。彼らはパウロの語る自由の福音を強く批判し、神によって真に義とされるには信仰のみでは不十分であると宣伝し、さらにパウロ個人の伝道者としての資質についても非難した。教会にもこれに同調する者が出始め、分裂が生じるという事態になったようだ。
パウロはこれを聞き、この手紙を書いた。そういうわけでこの手紙はしばしば激しい攻撃的な口調になっている。今日の箇所でも「呪われよ」なんて書いてある。それはパウロの「キリストの自由の福音」に何として留まっていてほしいとの現われであるようだ。
ユダヤ教
この手紙を書いたパウロはユダヤ人で、熱心なユダヤ教信者で、かつてはキリスト者を捕らえて処刑する側の人間だった。しかしある時イエスと出会いイエスを伝える者になった。
その出会いは使徒言行録には天から光が射してイエスの声を聞いたように書いてある。実際にどういうことがあったのかはっきりとはしないけれど、天から光が射しただけではイエスが神のような存在であるとは分かっても、イエスがどういう思いで何を語ったかなんてのはすぐ分かるなんてこともないだろう。それがきっかけとなったのかもしれないけれど、やっぱりいろんな人からイエスの語った言葉や何をしてきたかということを聞いてイエスのことを知ったんだろうと思う。そうやってイエスを知りイエスと出会ったんだろうと思う。そしてそのイエスのことを知ったことは、まさに天から光が射すような衝撃でもあったんだろうと思う。キリスト者を迫害していた時にはイエスのことをよく知らなかったんだろうとも思うけれど、今までとんでもない間違いを犯してきたというような思いも強かったんじゃないかなと思う。しかしそんな自分をも赦され受け入れられている、自由にされている、そのことを誰よりも喜んでいたんじゃないなかと思う。だからこそパウロは余計にそのイエスの福音を惑わし、ないがしろにする者に対して徹底的に対抗しているのではないかと思う。
また自分がそれほどに感動し感激して受け入れたイエスの福音からいとも簡単に離れてしまい、別のものに乗り換える者がいることすら不思議でならないのだろう。
使徒言行録を読むと、パウロたちは新しい土地へ行く時は、先ずはユダヤ教の会堂に行ったと書いてある。当時はまだキリスト教会という立場も確立しているわけではなかっただろうし、ユダヤ人キリスト者もいただろうし、ユダヤ教的感覚の影響も強かったのだろうと思う。
ユダヤ人キリスト者がが多かったであろうエルサレム教会などは特に、ユダヤ人としてのしきたりを守ることも大事だ、キリスト者も割礼を受けないといけないと主張していたようで、エルサレム教会から遣わされた者たちからそんな話しを聞かされたガラテヤの人達も不安になったんだろうなと思う。
こういうときはこうするものです、なんて言われてしまうと、そんなこと気にする必要はない、とはなかなか思いづらいなと思う。それだけではだめだ、と言われるといろいろと心配になる。
パウロはただイエスの十字架によって救われるのだと主張していたと思うけれど、そしてガラテヤの人達も最初はそのこれを聞いて喜んで安心していたんだろうけれど、それだけではだめだ、割礼を受けてユダヤ人となって、その上でイエスを信じなければいけない、なんて言われると不安になってしまったのかなとも思う。
人間も努力しなければいけない、努力する事も大事なんだ、ただ受けるばかりではだめだ、と言われるとそうかな、なんて思うようなところがある。
一所懸命に信じる者に、疑いを持たないで純粋に信じる者にこそ、神は恵みを与えてくれる、一所懸命に祈るからこそ神は応えてくれる、なんて話しを聞くこともある。神が応えてくれないのは熱心さが足りないからだというような話を聞く事もある。
その所為なんだろうか、人間の努力の度合いに応じて神が恵みをくれるような感覚があって、恵みを得るためには真面目に一生懸命に信仰しなければいけない、そうしないと神から見捨てられてしまうような気持ちがどこかにある。
あるいはまた、何かをすることで安心するような面もあるなと思う。やらねばならないと言われていることを決められたようにすることでやり遂げた、きちんとできている、と安心できるようなところも確かにあると思う。
ただ
ただ神の愛と憐れみによって救われる、人間的な努力や功績によってではない、そのことをパウロはひたすら主張する、そしてそのことをなにより大事な事として守ろうとしている。そのことを適当に解釈したり、余計なものをくっつけたりする事にも猛反対する。そんな奴は呪われよ、とまで言うほどに。
律法を守る事によって得られる達成感というものもあるだろう。しかしそこにはいつも不安がつきまとう。実際どれほど守れているか、もれている事はないのか、そんなことを心配したらきりがない。
しかしそれよりもはるかに大きな喜びをパウロは得ていたのではないか。律法を守れているということよりもはるかに大きな安心感をパウロは得ていたのだろう。ただ神の愛と憐れみによって救われるという福音に接したときのその大きな喜びと安心感があった、だからこそパウロはその福音を知って欲しいと思っていたのだろうと思う。
なんとかそこからそれないでほしい、そんな思いがこの手紙を書かせたのだと思う。
出会い
この手紙見るとガラテヤの教会の人たちが浅はかだったみたいだけれど、じゃあ自分がどれほどイエスの福音を分かっているのかというとそんなに違いはないのかもしれないなあとも思う。
時々思うけれど、パウロはどうしてこうまでして、命を掛けてまでイエスのことを伝えて行ったんだろうか、どうしてそんなことが出来たんだろうか。自分にはそんな思いはないなあと思う。
やっぱりイエスとの出会いがとても強烈だったんだろうなと思う。その出会いはさっきも言ったように、イエスの言葉との出会いだったんじゃないかなと思う。言葉を通してイエスと出会い、何ものにも代えられない喜びや安心を得たんだろうと思う。であるならば、私たちも同じように聖書にあるイエスの言葉を通してイエスと出会い、パウロと同じような喜びや安心を得ることができる。
もしパウロが天から光が射したことでイエスと出会ったということであれば、私たちがそんな出会いをすることは望み薄だ。けれど言葉を通してイエスと出会ったということであれば、私たちも同じように出会うことができる。
聖書の言葉を通して私たちもこのイエスと出会っていきたいと思う。パウロの人生を支えた、その言葉がこの聖書の中にはあるということだ。そのイエスの言葉を私たちもしっかりと聞いていきたいと思う。