礼拝メッセージより
思い起こす
今日はイースター並びに召天者記念礼拝です。召天者記念礼拝と言っても、亡くなった方を拝むことはしません。また亡くなった方のために祈る、所謂冥福を祈るということもしません。浄土真宗でも既に冥土にいるのだからそれを祈る必要はないから冥福を祈らないと聞いたことがありますが、それと似てる気がします。すでに神の下に召されているわけで、祈る必要がないと考えています。今日は先に召された方に祈るとか、その方のために祈るのではなく、召された方たちが聴いてきた聖書の言葉を一緒に聴いていきたいと思います。先に召された方たちが出会ってきたイエス・キリストに、私たちも今日出会いたいと願っています。
そして先に召された方たちがかつて、慰められ癒され励まされ力付けられた、そんな聖書の言葉を聞いて、私たちも同じように慰められ励まされたらいいなと願っています。
人生はなかなか思い通りにいきません。思いもよらないことばかりが起こる、想定外のことばかりが起こる、それが人生でもあるように思います。
昨年は大雨が降って呉でも大きな被害が出ました。また台風や地震の被害を受けた所もありました。どこに住めば安全なんだろうかと思いますが、絶対に安全な所なんてのはどこにもないような気がしています。
ブラタモリというテレビが好きでよく見てますが、あれを見ていて、かつて火山だったというような山が日本中至る所にあるということを知りました。ヒマラヤの高い山も地盤の動きによって押し上げられたなんてことは聞いたことはありましたが、山はそんな地盤の動きや火山によって出来て、その山を雨が削り取っていく、そんな繰り返しなんだろうなということをなんとなく実感しています。そういう活発な動きのある地球の上に住んでいるわけで、それに比べたら人間ってちっぽけな存在であるし、人間にとって大変なことが起こるのも当たり前なのかもしれないと思います。
ショック
そんな自然災害も大変なことですが、人間にはそれ以外にもいろんな苦しい目に遭うことがあります。身近な人の死に接するなんてこともその一つでしょう。
イエスの十字架に際し、彼の弟子たちにとってはそれはそれは大きなショックだったようです。
師匠であったイエスが十字架で処刑されてしまいました。偉大な王になるかもしれないというような、的外れな期待をしていた弟子たちもいたみたいだですが、少なくともイエスに魅力を感じて、人生を託してついてきていた弟子たちでした。どんな形にせよ社会を変える、新しい何かが始まる、そんな期待をしてきていたであろう弟子たちにとって、そのイエスの十字架の死は突然未来が断ち切られたような、目の前に断崖絶壁が現れたようなショックな出来事であったに違いないと思います。
自分達の先生が犯罪人として極悪人として十字架につけられて処刑されてしまい、自分達も犯罪人の弟子であるという危ない立場に立たされてしまってもいるわけです。聖書には男の弟子たちは十字架を前にしてみんな逃げたと書かれています。彼らは自分の身のまわりに何が起こっているのか分からない、これから自分がどうすればいいのかも分からない、ただうろたえるしかないような状況で、ただ逃げ出すしかなかったのでしょう。
ところが、そんな絶望的な状況であった弟子たちが、その後イエスこそがキリストである、救い主であると堂々と伝え始めたと書かれています。
絶望の淵から彼らはどうやって立ち上がっていったのか、そこで何があったのか、そこには復活のイエスとの出会いがあった、と聖書は伝えています。
復活
今日は教会の暦ではイースター、復活節となっています。どうして今日なのかというのは、紀元325年というから今から1700年位前のニカイア公会議とかいう会議で、春分の日の後の満月の次の日曜日ということに決まったそうで、一応それに倣っていて、それで毎年日付が変わってしまっています。
しかし聖書でいう復活ってどういうことなんでしょうか。僕もかつては素直にというか単純にイエスが生き返ったのだと思っていました。墓の中に寝かされていたイエスが生き返り、むくむくと起き上がってきたというようなイメージでした。
聖書にはいろんなことが書かれています。その後イエスが食事をしたとか、十字架の後を触ってみろと言って肉体があるようなことが書かれていたり、かと思うと戸締まりをしている家に入ってきたり、食事中に急に消えてみたりというふうに肉体を持たない、まるで幽霊でもあるかのような感じで書かれていたりもします。生き返って元の身体に戻るという訳ではないようです。牧師になって改めて復活ってなんなんだろうとずっと考えてますが、なかなかはっきりしません。それなのに毎年毎年イースターはやってきて、礼拝で話しをしないといけないという苦境に立たされています。
数年前に『私にとって「復活」とは』という本を見つけて、これを読めば答えが分かるだろうと期待して読みました。が、それを読んでも事実はこうです、復活とはこういうことです、イエスこんな風に復活しました、なんて説明はありませんでした。後で気が付きましたが、題名の『私にとって「復活」とは』とあるように、何人かの人の考えが書いてあるんですが、どうも復活とはその人その人にとって違ってくるものであるみたいです。つまり復活とはこういうことですよ、と物理現象のように万人がみんな共通して認識したり理解したりできるようなことではないらしいということです。つまり、むくむくと墓から起き上がって、誰もが目に見えるようにみんなの前に現れたということではないのだろうと思う。
心の目を開いて
今日の聖書の箇所は、イエスが十字架で処刑された後、何人かの弟子たちが復活のイエスに会ったという話しをしている時に、突然イエスが現れ弟子たちは亡霊を見ていると思った、なんてことが書かれています。そして焼いた魚を食べたなんてことも書いてあります。
ルカの福音書の最後の箇所ですが、そこにイエスが語ったという言葉が書かれています。ルカはこの福音書の後に新約聖書の中の次の次にある使徒言行録もまとめていて、その布石というか、使徒言行録へと繋がる言葉になっているような気もする。
今回一番気になった言葉は45節からの、「イエスは聖書を悟らせるために心の目を開いて、言われた」という所です。
イエスは病気の人や障害を持つ人、社会から除け者にされ差別されてきた人達、生きることに希望を持てないで絶望しているような人達のところへ出掛けていき寄り添ってきました。そんな人達の絶望や悩みや嘆き、そんなものを含めてその人そのものを受け止めてきました。そうすることで彼らは癒され、生きる力が与えられ希望が与えられてきました。
弟子たちはそんな苦しむ者たちに寄り添うイエスの姿を横からずっと見てきていました。しかし弟子たちはそのイエスの十字架の前にして、イエスを見捨てて逃げ出してしまいまし。弟子たちはイエスと一緒に自分達の国をもう一度強くしていく、あるいは社会を変えていく、そんな未来を思い描いていたんだろうと思います。輝く未来を思い描いていたのだと思います。
しかしそんな希望もイエスの十字架と共にすべて消え去ってしまったに違いないと思います。それどころか今度は社会に楯突く犯罪人の弟子という非常にやばい立場に追い詰められてしまっていました。
弟子たち自身がかつてイエスが寄り添っていた絶望する人間になってしまったわけです。しかし弟子たちはイエスの十字架の死を目の当たりにする中で、その苦しい状況の中で、かつてのイエスの姿、イエスの語った言葉を少しずつ思い出してきたのだと思います。
彼らは社会から除け者にされて絶望していた者たちに寄り添っていたイエスに付いていってその姿を見て、そのイエスの言葉を聞いてきていました。でも実はその時にはまだイエスの本当の姿は見えてなくて、イエスのすごさが分かっていなかったんだろうと思います。けれども自分達自身が絶望するしかないような苦しい状況になって、彼らは改めてイエスの振る舞いやイエスの言葉を思い起こしたのだろうと思います。そこで初めてイエスの姿が見えてきたんだろうと思います。肉体の目で見ていたときには見えなかったイエスの本当の姿を、心の目で見ることができたんだろうと思います。他の誰かに語りかけているのを端で聞いていた時には分からなかったイエスの言葉が、自分に語りかける言葉として聞くことで初めてその意味が分かったのだろうと思います。
心の目でイエスを見、心の耳でイエスの言葉を聞くことで、絶望していた弟子たちは、癒され慰められ力を与えられて、今度はイエスを堂々と伝える者となっていったのだろうと思う。そんな風に心の目でイエスを見ること、それこそが復活のイエスとの出会いだったのではないかと思います。
心の中だけではなく、実際にイエスが見えたのかもしれないとも思います。
もう数年前になるけれど、テレビで東北の震災の話しをしていました。その中に津波で家族を亡くしたという人が出ていて、詳しいことは覚えていませんが、津波がくるまで一緒にいた母親を波にさらわれてしまった人と、何かの都合で助けに行けなくて子どもを亡くした人がでていました。その人たちは家族を助けられなかった自分を責めて、その重荷にずっと苦しめられていたそうです。
しかしひとりの人は、夢の中にいつもの穏やかな顔をした母親が出て来たという話しをしていました。子どもを亡くした人は、昼間起きている時に部屋の中に子どもが現れてにっこり笑った姿を見たと言っていました。多分幻なのだろうと思いますが、その二人はそのことがあってからそれまでの重荷がずっと軽くなったと言っていました。正体が何だったにせよ、夢でも霊でも幻でも、そんなことは大した問題では無くて、その姿を目にしたことこそが大事だったわけです。
弟子たちもそんな風に、あるいはもっと強烈にイエスの姿を見たのかもしれないなあと思います。
先に召された方たちも、肉体の目でイエスを見たわけではないだろうと思います。けれども心の目でイエスを見、心の声でイエスの言葉を聞いてきたのだろうと思います。まさに復活のイエスと出会い、そのイエスに力付けられ慰められて生きてきたのだと思います。
先人たちを力付け慰めたイエスの言葉を、私たちも聞いていきたいと思う。私たちが願うならば、イエスはきっと私たちの心の目も開いて見せてくれるに違いないと思う。私たちもそうやって復活のイエスと出会いたいと思います。
このイエスは、いつまでもどんな時でも一緒にいる、決して独りぼっちにはしない、何があっても味方でいる、そう約束してくれています。