礼拝メッセージより
まわり
イエスの周りにはいろんな人がいた。そして十字架を目の前にしたとき、十字架に付けられた時にもやはりいろんな人がいたと書かれている。
災難
ここに来て突然イエスとの関わりを持たされることになった人、それがシモンだ。イエスは前夜からの徹夜の取り調べなどで相当に疲れていたのだろう。十字架を背負わされて処刑場に行くまでの足下もおぼつかない。兵士達はたまたまそこにいたシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせてイエスの後ろから運ばせた。シモンにとっては全くの災難というようなものだったに違いない。しかしシモンはそんなまるで災難としか思えないような仕方でイエスとの関わりを持った。シモンがその後どうなったかはわからないが、マルコによる福音書にシモンの子どもの名前が出てくることからすると、シモンの子ども達は後々教会でよい働きをしたのかもしれない。
嘆き
イエスの周りにはイエスの状況を嘆く婦人達がいた。大きな群を成していたという。イエスはその婦人達に向かって、「わたしのために泣くな、むしろ、自分と自分の子供達のために泣け」と言う。一体これはどういうことなのだろうか。
他人を
イエスの周りにはイエスをあざ笑う者もいた。議員達は「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」と言い、兵士達は「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救って見ろ」と言う。そして十字架に付けられている犯罪人のひとりまでも、「おまえはメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言った。イエスは他人を救った。しかし自分は救わない。どうして自分を救わないのだ。自分も救えないのか、どうしてそれでメシアと言えるのか、自分も救えない者が救い主であるわけがないではないか、そう言っているようだ。
神の子なら
十字架の周りにいる人達の声は、実は私たちの思いを代弁しているような気がする。
メシアなら、キリストなら、自分を救えるはずだ。キリストなら圧倒的な力で十字架から舞い降りて来るはずだと思う。それでこそキリストだと思う。キリストは誰にも支配されない、力があり、悪を蹴散らし、自分に反対する者をやっつけるのではないかと思う。水戸黄門のように、最後の最後には、もうそこまでだ、おまえ達の勝手にはさせない、俺様をどなたと心得る、と悪者を成敗する、そう思っているし、そんな期待をする。
でもイエスは黙ったまま、苦しんでいるまま、弱いまま、誰からも見捨てられ、十字架の死に追いやられている。されるがまま、何の抵抗もしない。
とりなし
イエスは何も抵抗しないどころか、十字架上で「父よ、彼らをお赦しください。自分で何をしているのか知らないのです。」と祈ったと書かれている。しかしこの言葉はかっこの中にあるように重要な写本にはないそうだ。
実際そう言ったかどうかは定かではないけれど、イエスの生き様はまさにこの祈りそのものだった。人間の罪も汚れも邪悪な思いも全てを包み込み受け止め赦す、それがイエスの生き方だった。
しかしそんなイエスがなぜ苦しまねばならなかったのかと思う。神なのに、キリストなのにどうしてこんな惨めな姿にならねばならないのか、それも最後の最後に逆転するわけでもなく、どうして死ぬまでそのままなのかと思う。
神はどこに
そしてどうして神はこんなことを許すのか、どうしてそのまま放っておくのか、神は一体どこにいるのかと思う。悪を裁いてこそ神である、苦しい状況から救ってくれるものこそ神である、となんとなく思っている。なんとなく思っているけれど、その神のイメージはどこからきたんだろうかと思う。どこで誰に教えられたのだろうか。
聖書は、イエスの中に神を見た人達の証言集なのだと思う。イエスの生き様やイエスの死に様を見て、そこに神を見て、神を感じた人達の証言集、それが聖書なのではないかと思う。
救い
イエスの近くでひとりだけイエスを救い主だと証言している人が登場する。それがひとりの犯罪人だ。十字架につけられ死のうとしている、そんななんとも情けない敗北のような有り様のイエスを見つつ、そのイエスに神を見ているようだ。
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言う。
イエスは、これに対して「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
ここに救いがあると聖書は伝えているようだ。つまり救いとは、イエスが共にいることなのだろう。イエスと共にいることこそが救いなのだろう。私たちは苦しい状況を奇跡的に解決してくれることを望む。周りの状況が変わることを求め、状況が変わってこそ救われたと思いがちだ。しかしイエスは、まるで状況が変わっていない、苦しいままの十字架上で、今ここが楽園なのだと言ったというのだ。
高い高い天にいて私たちをその天に引き上げてくれるのが神である、あるいは天から力を発揮して状況を変えてくれるのが神である、そんなイメージを持っていた。しかしイエスは私たちの所へ来て、無力な私たちといつまでも共にいるために、自分も無力なままでいた。私たちを徹底的に愛し、徹底的に受け入れ、徹底的に与え続けた。
イエスの弟子たち、また福音書をまとめて人達も、そのイエス自身の中に神を見いだしたのだと思う。イエスが自分の持っていた神のイメージ合っているどうかではなく、イエス自信の中に神を見たのだと思う。そしてイエスの中に神を見るならば、そこはすでに楽園なのだ、この福音書はそのことを伝えているようだ。
聖書は私たちに向かって、このイエスを見よ、ありのままのイエスを見よ、そのイエスの中に神を見よ、そう言われているようだ。