礼拝メッセージより
「傷を抱えて」 2019年4月7日
聖書:ルカによる福音書22章31-34、54-62節
聖書はこちらからどうぞ。
(日本聖書協会のHP)
傷
世の中には、牧師は達観している人間だとか、達観している人が牧師になっている、なんてことを思っている人がいるみたいだ。あるいはそういう牧師もいるのかもしれないけれど、自分のことを考えるとまるでそんなことはなくて、僕自身は誰よりも心配症で臆病でいい加減で、それに誰よりも不信仰じゃないかと思っている。そんなんで牧師していいのかと思う時もあるけれど、駄目だと言われればそれまでだけど、今の所そう言われてないので続けている。
でも昔は人間は生きている間にだんだんと達観する方向へ向かっていくのかと思っていた。芸術家がきれいな彫刻を造るように、生きていく間にだんだんと綺麗につるつるに造り上げられていくのかと思っていた。
でも人間が生きていくというのは、つるつるにされていくというよりも、少しずつ傷ついていく、少しずつ少しずつ傷が増えていくことのような気がしている。人生とは傷を増やして行くことでもあるような気がしている。
牢までも
今日の聖書はペトロが背負っていた大きな傷の話しなんだろうと思う。
自分の師と仰ぐ先生が逮捕されてしまった。犯罪人として捕まってしまった。十字架が目前に迫っている。しかしそのことを弟子達はまだよく分かっていないようだ。
31節からのところを見ると、イエスはペトロに対して、「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言っている。これからあなたの身に苦しいことが起こる、しかしあなたのために信仰がなくならないように祈ったとイエスは言うのだ。
それに対してペトロは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と答えた。格好良い自分に酔っているような気もするけれど、多少なりともこの時は本当に牢の中までもついていくんだという気持ちもあったのだろうと思う。少々のことが起こってもイエスについていく覚悟もあったのだろう。自分ならば大丈夫、どこまでもついていくのだという思いがあったのだろう。信仰がなくならないように祈ってもらうようなやわな人間ではない、という気持ちもあったのかなという気もする。
熱血
イエスは、「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」と言う。最初はシモンと実名で呼んでいたが、ここではペトロとニックネームで呼ぶ。ペトロとは岩というような意味らしい。岩のような堅い信念を持っていたからか、頑固だったからか、岩のようながっしりした体だったのだろうか。はっきりとはしないけれども、一緒に牢に入っても死んでもいいと口にするような熱血漢でもあったようだ。
しかしイエスは、その熱血漢であるペトロに、あなたは今日、鶏が鳴くまでに三度わたしを知らないと言うだろう、と言うのだ。そんな大変な状況がもう目の前にまで迫ってきているという。自分の信念や力だけでは太刀打ちできないような苦しい大変な危機が迫ってきている、と言うのだ。信仰がなくなるような、信仰を打ち砕いてしまうような、そんな事柄が迫っているというのだ。
これを聞いたペトロはどう思ったか。他の福音書では、ペトロは、そんなことは言いません、ときっぱりと否定している。一所懸命にイエスについてきたこの自分が、自分の師匠のことを知らないなんて言うわけがない、何が起ころうとそんなことあるわけないと思っていたのだろうか。そんな大変なことになるとは予想もしていなかったということかもしれない。
しかしイエスが捕らえられてしまい、極悪人のような扱いを受けるという予想外の事態になっていく。ペトロは自分がその極悪人の弟子という全く予期していなかった立場に立たされていることを知り、自分の身の危険も感じていったのだろうと思う。そこでペトロはイエスを知らないと言ってしまう。
ペトロは振り向いたイエスの顔を見て、外に出て激しく泣いた。
弱さ
ペトロは、私はどこまでもイエスについていくと言っていた。きっとそんな信念を持って、確信を持ってそう言ったのだろう。そう言える自信をペトロは持っていたのだと思う。しかしそのペトロの持っていた信念を吹き飛ばす事態が起こってしまった。きっと少々のことならペトロはその信念をずっと持ち続けただろうと思う。しかしその信念を持ち続けることが出来なくなるようなことが起こってしまったのだ。
そこでペトロは相当に打ちのめされてしまっただろうと思う。自信があっただけに余計に失望は大きかったに違いないと思う。どんなことでも立ち向かっていける、命の危険があっても信念を貫いていける、という自信は崩れ去ってしまったのだろう。そんな自信を誇らしげに自慢していたのに、そんなものはもろくも吹き飛んでしまったわけだ。自分の駄目さを、あるいは自分の弱さを、それは本当の自分ということかもしれないけれど、それを突きつけられたのだろう。
今日の聖書から思い出す話しがある。
《イエスの目》
ルカによる聖福音書のなかに、次のような箇所があります。
しかしペトロは言った。「人よ、わたしはあなたの言うことがわかりません。」そう言いおえないうちに、すぐ、ニワトリが鳴いた。主は振り向いて、ペトロを見つめられた・・・ペトロは外に出て、激しく泣いた。
わたしは〈主〉とかなりよい関係にありました。わたしは〈主〉にさまざまなことをお願いし、〈主〉と会話し、〈主〉をたたえ、〈主〉に感謝したものでした。
でもいつもわたしは〈主〉が、〈主〉の目を見なさいとおっしゃっているように感じて不安でした・・・・・・わたしは〈主〉の目を見ようとしませんでした。わたしは話しましたが、〈主〉がわたしを見つめておられると感じたとき、目をそらしました。
わたしはいつも目をそらしました。そして、なぜかわかっていました。わたしは怖かったのです。懺悔していない罪のとがめをそこに見いだすように思ったのです。そこに、ひとつの要求を見いだすだろうと思ったのです。〈主〉がわたしから何かを望んでおいでと思ったのです。
ある日、わたしは勇気をふるって、ついに見たのでした! なんのとがめもありませんでした。なんの要求もありませんでした。目はただこう言っていました。「わたしはあなたを愛する。」わたしは目の中を長い間のぞいていました。すみずみまで見ました。そこには次のメッセージがあるだけでした。「あなたを愛する!」と。
わたしは外に出て、ペトロのように泣きました。
『小鳥の歌』アントニー・デ・メロ著 より
ペトロがイエスを知らないと言い、鶏が鳴いた。その時イエスは振り向いてペトロを見つめた。イエスに見つめられて、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言うだろう、と言ったイエスの言葉を思い出した、と言う。
でもペトロはこの出来事があったからこそ自分を見つめ直し、またイエスを見つめ直したのだと思う。その後ペトロは激しい後悔の念にさいなまれつつ、振り向いたイエスの顔を思い出し、さらにかつてのイエスの言動を思い起こしていったのだろうと思う。イエスの生き様を思い起こす中で、振り向いたイエスの目の中にイエスの愛を発見したのだろうと思う。
イエスのそのまなざし、それはお前のことは全部分かっている、私を知らないという弱さを持っていることも分かっている、それでもいい、知らないと言ってもいいんだ、弱さを持っていてもいいんだ、失敗してもいいんだ、だから、立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい、そんなまなざしだったのではないかと思う。
裏切り者の自分を、黙って、責めることも謝罪を要求することもなく、ただ愛していると見つめてくれたことによって、ペトロは弱さやだらしなさ、そして失敗もするという自分自身を受け止めていけたのだろうと思う。
ペトロがイエスのことを知らないと言ったという話しはご丁寧に四つの福音書全部に書かれている。福音書がまとめられた時には有名な話しだったのだろうと思う。しかしこんな格好悪い話しを伝えられてペトロにとって迷惑じゃなかったのだろうか、その話しはなかったことにしてくれと言わなかったんだろうかと思ったりもする。
でもこうやって伝わっているということは、ペトロにとって、そして他の弟子たちにとっても、このことはイエスのことを知るとても大事な出来事でもあったのではないかと思う。
傷を抱えて
人間って長い間生きていると失敗したり挫折したり誰かを傷つけたり、そんな傷がどんどん増えていく。洗練された達観した人間からはどんどん遠ざかっていくようだ。そしてそんな自分を自分自身で責めてしまう。まだまだだめだ、今のままではだめだ、まだまだ足りない、こんな自分では駄目なのだと思う。
まわりの誰からもそう見られているに違いないと思い、そんな自分を自分で責めてしまう。そしてイエスからも同じような目で自分を見つめられているような気になっている。
でもどうやらイエスの目は違うらしい。イエスを知らないと言ってしまったペトロを見つめるイエスの目の中にも、「あなたを愛する」というメッセージがあったことを後からペトロは気付いたのだろうと思う。死ぬまで付いていくと言いながらイエスを知らないと言った、その自分を愛してくれている、その自分をそのまま包み込み受け止めてくれている、ペトロはそこにイエスの偉大さというかすごさを感じていたのだろうと思う。だからこの話をペトロは自分でみんなに伝えていったのだろうと思う。
私たちもいろんな失敗や挫折をしながら、そしてあの時ああすればよかったというような後悔を抱えながら、そんないろんな傷を背負いながら生きている。
しかしそんな私たちをイエスはそのまま愛してくれているというのだ。傷だらけの私たちを見つめるイエスの目の中には「お前を愛する」というメッセージがあるだけなのだろう。イエスは私たちを見つめつつ、私たちがその目を覗き込むのを待っておられるのではないでしょうか。傷だらけの私たちをイエスが愛してくれている。だから私たちはこの傷を無理に隠す必要もないし、誤魔化す必要もない。この傷を抱えつつ、またイエスの目を見つめつつ生きていきたいと思う。