礼拝メッセージより
重い皮膚病
聖書の本には「らい病」と訳しているけれど、これは「重い皮膚病」と訂正されているようだ。
旧約聖書のレビ記13章から14章を見ると、皮膚病についての対応が書かれている。祭司が皮膚病であるかどうかを見て、皮膚病であれば「あなたは汚れている」と言って隔離する、皮膚病ではないと判断されるときは「あなたは清い」と言うなんてことが書かれている。
伝染して病気が広がっていくことがないようにと隔離するという風になっていたんだろうと思う。でも病気が移らないようにというだけではなくて汚れているからと言われて隔離されるというわけで皮膚病の人にとっては余計に辛いことだったのだろうと思う。
今日登場する、重い皮膚病を患っている十人もそうやって隔離されていたんだろう。だから「遠くの方に立ち止まったまま」離れたところから声を張り上げて「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言ったようだ。
そこでイエスは、「祭司たちのところへ行って、体を見せなさい」と行って、そこへ行く途中に清くされた。皮膚病で隔離されていた人は、祭司のところで病気が治ったことを確認してもらって、清めの儀式をすれば社会復帰できることになっていたそうだ。
十人は祭司のところへ行く途中に癒されたけれど、イエスのもとに帰ってきたのはサマリア人ひとりだけだった、という話しだ。他の9人はそのまま祭司の下へ行って清めの儀式をしてもらいに行ったけれど、一人のサマリア人だけはそれよろも先にイエスの下へ戻って来たということのようだ。
サマリア人
サマリア人のことをユダヤ人は見下していた。かつては同じ民族であったが、イスラエルが北と南に別れた後に、サマリアのある北の国をアッシリアという国が占領し、アッシリアは東の方の民族を移住させてしまった。その結果、民は混血となり、宗教も東方の宗教とイスラエル古来の信仰とが結びついてしまった。南の国のユダヤ人たちはそんなことからサマリア人を軽蔑し、サマリア人の信仰を異端として見ていたようだ。
けれども癒されてすぐにイエスのもとに帰ってきて、感謝し神を讃美したのは一人のサマリア人だけだったというのだ。
どこに
どうして残りの9人はイエスのもとへ帰ってこなかったのだろうか。イエスが癒してくれた、イエスが清くしてくれたという気持ちがあればイエスに感謝しにくる気がするのだが。
イエスが癒してくれたと思っていないのだろうか。イエスは十人に対して「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言っただけだ。そうするとイエスが癒してくれたとは思わなくて、いつの間にか治っていたと思ったか。でもイエスが行けと言って、それを実行してる途中に治るわけだから、そうしたら言われたとおりしたら治りましたって喜んで報告くらいはしそうな気がする。
共に喜ぶ
どうして戻ってこなかったのかという理由がよく分からないけれど、その戻ってこなかったということをイエスは責めているんだろうか。他の九人はどこにいるのかと言っているけれど、けしからんとは言っていない。言ってはいないけれど言いたい気持ちだったのだろうか。
実はイエスは9人を責めるのではなく、寂しい気持ちだったのではないのかと思うようになってきた。病気が治って祭司にも清いと認められたことを一緒に喜びたかったのではないかと思えてきた。
ずっとこの箇所は、感謝しに帰ってくるべきなのに帰ってこないユダヤ人は駄目な奴等で、ほかの九人はどこにいるのか、というイエスの発言はそんなユダヤ人を責めているというか叱っているのだ、ちゃんとイエスに感謝しなければいけません、感謝する人間にならないといけません、という教訓だと思っていた。
でも最近は違うような気がしてきている。ほかの九人はどこにいるのか、というのは九人を責めているのではなく、九人と一緒に喜びたかったということなんじゃないかと思うようになった。サマリア人に言った「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」という言葉をほかの九人にも伝えたかったという気持ちなのではないかと思うようになってきた。
イエスは、病気を癒して社会に復帰できるようにすればそれでおしまいではなく、そのことを一緒に喜びたいという気持ちが強かったんじゃないか、だからこそ、他の九人はどこにいるのか、と言ったんじゃないかという気がしている。
聖書には、「共に喜び、共に泣きなさい」なんて言葉がある。共に喜びたい、共に泣きたいと一番に思っているのはイエスなのではないかと思う。
私はお前と一緒に喜びたい、一緒に笑いたい、一緒に泣きたい、一緒に悩みたい、一緒に嘆きたい、イエスは私たちにもそう言われているのではないだろうか。
神の国
神の国はあなたがたの間にある、とイエスは言った。間にあるんだ。つまり人と人との繋がりというか関係、そこに神の国があるということなのかなと思う。イエスの声を聞くというイエスと人間との関係、またイエスに招かれている人間同士の関係、いたわり合う、愛し合う、気遣う、そういう関係があることが救いであり、そこがまさに神の国なんだろうと思う。
私たちの目にはこの世界は苦しく辛いことばかりに見える。しかし神の国はもうここにある、とイエスは言うのだ。エッと思う。そうなのかとびっくりする。でもちょっと嬉しくなる。
救い
ほかの9人はこの後社会に復帰したのだと思う。でももしまた重い皮膚病になったとしたら、以前よりもされに落ち込んでしまうのではないかと思う。でもこのサマリア人はもしまた重い皮膚病になったとしても、以前とは違う気持ちでいられるのではないかと思う。たとえそうなったとしても、イエスの「あなたの信仰があなたす救った」という言葉が彼を支え続けるのだろうと思う。
病気になったり治ったりまた病気になったりというのが人生だ。救いとは病気が治ることではなく、イエスが共にいるということなんだろうと思う。
病気の時も元気な時も、どんな時でもイエスの言葉を聞いて生きること、イエスの言葉に支えられて生きていく、それが救いなんだと思う。