礼拝メッセージより
お金
イングランドのサッカーのプレミアリーグをよく見てる。最近ではインターネットで見るようになっている。試合だけじゃなくてチームや選手のニュースなんかも見るけれど、気になることの一つが選手の給料。イングランドは週給が普通らしい。ちなみにサッカーのことを日本語では蹴球(しゅうきゅう)という。その蹴球の選手の週給、だけれど、2000万円とか3000万円の人もいて、一番高い選手は週給4000万円だそうだ。なんと一週間の給料が4000万円。
さすがに週給2000万円以上貰うような選手は一握りみたいだけど、それにしてもすごいなあというかいいなあと思う。
なんだかすごい金持ちが世の中にはいるんだ、どうやったらそんな金持ちになれるんだろうかと思って、自分の無能さを嘆いている。
今日の話しの中にも金持ちが登場するけれど、やっぱり金持ちにはあこがれる気持ちが強い。
金に執着するファリサイ派
ルカによる福音書では16章はずっとお金に関する話しが続いている。14節には、金に執着するファリサイ派の人々が出てくる。そして今日の話しもどうやらそのファリサイ派の人々に向けて話されたもののようだ。
ファリサイ派の人たちは富は神からの祝福だと自慢していたそうだ。このたとえの金持ちもそんな気持ちだったということになるだろう。そしてその富は自分のもの、自分だけのものと思っていたらしい。自分の家の門の外にはラザロが残飯を待っていることを知っていながらそのままでいたということになる。ラザロという名前も知っていたけれどことさら助けることもなかった。
ラザロは食卓から落ちるものでも欲しいと思っていたようだが、金持ちはラザロがそれを期待しているなんてことを想像もしなかったということなんだろう。
当時はナイフもフォークもナプキンもなくて、食べ物は手で食べたそうで、金持ちはナプキンの代わりに厚切りのパンで手を拭いて、一度手を拭いたパンはそのまま捨てていたそうだ。食卓から落ちる物とはそういうもののことだろうと書いていた注解書があった。
兄弟愛
死後、ラザロは天国に行くが、金持ちは陰府に行って苦しみ自分の兄弟たちのことを心配する。このままだと自分と同じ目に合ってしまう。こんなところに来ないようにラザロを遣わしてくれ、とアブラハムにお願いする。しかしアブラハムは、モーセと預言者がいるのだからそこから知ることができるという。モーセと預言者とは聖書のことを指しているみたいだが、金持ちは聖書を読んだって自分の兄弟たちは悔い改めはしない、死んだ者を復活させて、つまりラザロを生き返らせて兄弟たちに知らせてくれと言う。しかしアブラハムはモーセと預言者に耳を傾けないなら、死者の中から生き返る者がいたとしても言うことは聞かないだろうという。そういう話しだ。
どんな奇跡的なことが起こったとしても聖書に聞かないなら悔い改めることはないだろう、という。聖書から聞くことをしないならば、どんな奇跡があったとしてもその人の生き方を変えることはない、神を見上げるようにはならない、ということのようだ。
隣人を愛す
レビ記
19:9 穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。
19:10 ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。
イザヤ書
58:6 わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。
58:7 更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。
58:8 そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。
旧約聖書には、こういうふうに弱い立場にある人の親切に保護しなければならない、という事が書かれている。
ファリサイ派の人々はこの聖書の言葉はよく知っていたはずだ。「隣人を愛せよ」という言葉もよく知っていたはずだ。しかし、金持ちにとっての隣人とは自分の兄弟ではあっても、ラザロではなかったのだろう。よきサマリア人の話しにあったように、隣人とは誰なのかということが問題だ。
ファリサイ派も神を愛し神に従おうとしていたのだろう。しかしその神を見つけられずにいたのではないか。神に仕えて心から豊かな人生を送りたいという願いは誰にもあるだろうと思う。けれどもお金をいっぱい持ってしまうと、それを守らないといけないというか、守りたい、減らしたくない、という思いが強くなってしまうのだろう。お金をいっぱい持っていることが神に祝福されている証しだという気持ちがあったようだが、そうすると余計にそれを守ろうと思うような気がする。
でもお金はそれに執着して独り占めして守るものではない、とイエスは言っているようだ。
ぐさり
そうは言われてもなかなかそうもいかない。やっぱりいろんなものを独り占めしていたい。誰かを助けるとか、分け与えるなんてなかなかできない。
遊び暮らせる程裕福になればそうしてもいいけど、なんて思うのが関の山だ。こんなに大変な暮らしをしているのに、誰かを助けるなんてとてもとてもと思う。お金がないと暮らしていけないだろう、と言いつついつのまにかお金に目が奪われているというかお金しか見えなくなっているような気もする。
イエスは「受けるよりも与える方がさいわいである」と言ったと聖書に書いてある。
あれを与えて下さい、これを与えて下さい、とよく祈る。いっぱい受けるとうれしい。でもイエスは与える方がもっとうれしいことなんだと言った。いろんなものをいっぱい手に入れたいという気持ちがある。けれど分ける方が幸いなんだ、とイエスは言っているようだ。
落ち穂を残しなさいとか、貧しい人のことを助けなさいとか、与える方がさいわいだとか、あなたたちは既にもう聞かされているじゃないか、既によく知っているじゃないか、神を信じ神に従っているというならそれを実行しなさい、そう言われているようだ。そしてそれが豊かな人生を歩むことにもなるなんだと言われているようだ。
喜びの人生というか満ち足りた豊かな人生を送るためには、何か特別な才能が必要なのでもないし、多くの財産が必要なのでもない。豊かな人生のために何が必要なのか、何が大事なのか、何をすればいいのか、それをあなたたちはもう知らされているじゃないか、聖書を通してもう既に知らされているじゃないか、落ち穂を残し、貧しい人を大事にし、与えることだと聖書に書いてあるじゃないか、聖書をよく見てみなさい、そう言われているようだ。
16:13「どんな召使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
週給4000万円とかいう風に、すっかりお金に目を奪われているなあと思う。お金に支配されてしまっているのかもしれないなあと思う。
ぐさりとくる。全くぐうの音も出ない。
イエスは私たちに豊かな人生を送るようにと招かれているのだろう。本当に大事なものが何なのか、もっとしっかりと聞いていかないといけないなと思う。