礼拝メッセージより
因果応報
東日本の地震から8年になるけれど、いろんな災害が起こる時、どうしてあの人が犠牲にならないといけなかったのかと思う。災害だけじゃなく、事件や事故の時にも、あんないい人が犠牲になるなんておかしい間違っていると思うことがある。
あるいは悪人と言われるような人が良い思いをしていると神はいないのかと思い、そんな人が災難に遭うとやっぱり神はいるんだなんて思う。
善人が栄えて悪人が滅びるのが当たり前、神はそうするはず、そんな気持ちがどこかにある。
ガリラヤ人の災難
この直前に事件が起こったことが書かれている。実際にどういう事件が起こったかは定かではないがこの類の事件はときどき起こっていたようだ。一説によると、ローマの役人でこの地方の総督をしていたピラトはエルサレムに新しい用水路を造るために神殿の金を出させようとした。このことでユダヤ人たちは激しく怒り暴動が起きそうになった。そこでピラトは兵士たちを変装させて群集の中に潜りこませ、合図と共にいっせいに群集を襲い解散させた。兵士の中には乱暴な者がおり、かなりのユダヤ人が殺された。それがこの箇所の出来事となった事件ではないかと考えられるのだそうだ。
シロアムの塔の災難
イエスはそのニュースを聞き、その災難に遭った者がほかの誰かよりも罪深い者だったと思うか、と聞いた。当時そのような考えが支配的だったようだ。災難に遭うもの、いわゆる不幸な目に遭う者は罪深いからだと考えられていたらしい。病気も、事故も、災害に遭うのも、それは当然の如く罪の結果だと考えられていたようだ。
しかしイエスはそのことを真っ向から否定する。「決してそうではない」という。続いてシロアムの塔が倒れて18人が死んだ事故の話しをする。この事故も実際どのようなことだったのか定かではない。ピラトが用水路を作らせようとしたときにシロアムの塔が倒れるという事故が起こったのかもしれない。しかしイエスはこの事故の犠牲者もほかの人たちより罪深かったから事故に遭ったのではない、と告げる。ここでも「決してそうではない」と語る。
この事故が先ほどのピラトによる用水路の工事での事故だとすると、それは神殿の金を使ったから神の罰を受けたのだ、という考えなりそうな事故だ。ユダヤ人から見ると、ばちがあたったとか天罰だとか、ざまあみろという気持ちになったであろうことは容易に想像できる。
しかしイエスはそうではない、と言う。災難に遭った、災害に遭った者たちだけに罪があったわけではない、みんな変わらないんだ、あるいは全ての人間が同じように滅ぼされてもおかしくはないんだと言う。
お前こそ
お前こそ悔い改めないといけない張本人ではないのか、とイエスは迫っている。自分は立派、自分は大丈夫、自分はあんな奴等とは違う、と思っているその本人に向かってイエスは語り掛ける。
よきサマリア人、の話しでも、実はあれは自分たちこそ優れている、神に近い、神に喜ばれていると思っている祭司、律法学者たちに向かって、お前たちよりもお前たちが軽蔑しているサマリア人の方がよっぽど神に喜ばれている、という痛烈な批判だったのかもしれない。
自分たちは誰かよりも優れている、誰かよりも正しく生きていると思っている者に向かって、お前こそ自分がわかっていない、お前こそ思い上がっているのだ、と語っているのではないか。
見えると言い張るところに罪がある
自分は分かっている、と思っているところに落とし穴がある。自分こそ神を知っている、神に近い、そう思っている時、そんな目でまわりの者を見る時、あいつらは何も分かっていない、俺は神に選ばれてきた、あの人たちは選ばれていない、そんな風に思ってしまう。
教会も、私たちはきよいんだ、教会の外の人とは違うんだ、と思ってしまいがちだ。自分はほかの人よりも少し高い所にいると思いがちだ。他の人よりも立派だから選ばれたと思っている、外の社会よりも立派でないといけないと思っているとしたらそれは大分違うのではないかと思う。教会は立派な社会人の集まるところではない。立派な社会人を養成する所でもない。
教会は立派な社会人ではなく、立派な教会人の集まりであってほしい。立派な社会人は自分たちのお陰でこの世界は成り立っている、自分たちはいつも正しいことをしている、俺はこれだけのことをしてきた、なのにあいつらは何だ、なんてことを思っている。もっとしっかりしろ、俺たちのようにもっとちゃんんとしろ、なんてことを言う。
けれどもイエスはそんな人間になれとは言ってはいない。イエスは隣人を愛しなさい、苦しんでいる者の隣人となりなさいというのだ。立派な教会人とは、誰かよりも優れている人のことではなくて、どこまでも愛する人、どこまでも隣人となろうとする人のことだろう。そして自分の罪をいつも自覚している人、自分こそ神に赦されなければならない人間であることを自覚している人のことだろう。
悔い改め
自分こそ一番に赦されなければならない人間であることを自覚していくこと、それは大きな重しをひっぱって生きていくような辛いことだ。けれども実はその重しがあることがとても大事なことなのだと思う。重しがなくなってしまうと私たちはどこへ行くか分からないような人間なのだ。どこまでも舞い上がってやがて割れて落ちてしまうような風船のようなものだろう。重しがなくなると、周りの人のダメさばかりが目についてしまい、誰に対してもけしからんという気持ちばかりになってしまう。そこでは人を愛すること、隣人となることができなくなってしまう。
自分の罪や自分の痛みをずっと抱えていくこと、そんな重しがあることで初めて、人は人を愛することが出来るのだろうと思う。そこで初めて優しくなれるのだと思う。悔い改めるということは、神を見上げつつ、そんな重しをずっと抱えていくことなんだろうと思う。
いちじく
次に3年間実を結ばないいちじくの木の話しが出てくる。主人はもう切り倒せ、と言う。しかし、そこの園丁は主人に、もう一年待ってくれ、肥やしをやってみるから、と言う。
園丁とはイエスのことで3年間とはイエスの宣教活動と重なるのかもしれない。実を結ばない私たちのことを、イエスはそれでも面倒を見る、それでも諦めない、もう1年肥やしをやってみるから待ってくれというような思いで私たちに語りかけているということなんだろうと思う。
いいや、違う
こんなことになっているのは悪いことをしたバチがあたったに違いないとか、これは因果応報だとか、こんな自分はもうどうしようもない、こんな自分は生きる価値もない、誰からも見放されるに違いない、神からも見捨てられるに違いない、そんな風に思って落ち込んでしまうこともある。しかしそんな私たちが当たり前に思っている、当然だと思っていることに対して、イエスは度々、いいや、そうじゃないと言っているようだ。
いいや、違う、そうじゃない、お前は大切な大事な人間だ、イエスはそう語りかけてくれているように思う。