礼拝メッセージより
主の祈り
祈りって何なんだろうって思ってる。苦しくてたまらないと思うような時には助けて下さいって簡単に祈ったりするけれど、そんなのが祈りなんだろうかなんて思うし、でも綺麗な言葉で流暢な祈りなんてのもまるでできないし。祈りって何なんだろうかと思う。
イエスが祈っていたことは聖書の中に度々書かれている。その様子を見て弟子たちは祈りを教えてくれと頼んだ。
そこで弟子達に教えられた祈りが主の祈りと言われる祈りだった。だいたいが日常的な言葉による祈り。かしこまった飾った言葉を用いるのではなく、普段使っている言葉。神に対しても父よ、と呼びかけるようにと言っている。小さな子供が父親の膝の上にちょこんと座っているようなイメージなのかな。膝の上に座っていてふっと振り向いて父ちゃんと呼びかける、祈りとはそういうものだと言っているようだ。
そして先ずは「御名が崇められますように。御国が来ますように。」と祈るように言われる。神の御心のようになるように、神の支配のままになるように、神が良いと思われるようになるように、ということが大前提であるということのようだ。
祈りはただ私たちの願い事を神に言うことであるように思うことが多い。しかしイエスは神の支配が行われるようにと祈れと言う。私たちは自分の願うようになればそれがいいと思う。しかし現実には私たちのそれぞれの願いがみんな叶うわけもない。そしてその願いが叶うことが必ずしも良いことかどうかということも分からない。それよりもまず、神が良しとすることが行われること、神の支配の通りの世界となることを祈れと言う。
わたしたち
しかしそれだけではなく、自分たちの願いも祈るようにという。そして後半の祈りは、私たちに必要な糧を与え、私たちの罪を赦し、私たちを誘惑に遭わせないで、とみんな私たちとなっている。私に必要な糧を与え、私の罪を赦し、私を誘惑に遭わせないで、ではない。
わたしたち、となっていることに気付いてから気楽に祈れなくなったという人がいた。
わたしたちとはいったい誰のことなのか。自分の家族、自分の教会、自分の国のことなのか。きっと私たちとは、全世界の者のことなのだろうか。それはいいとして、そこには自分の嫌いな奴も憎い奴も含まれているということになるのかもしれない。そうすると気楽にスラスラ祈るのも難しい。
主の祈りは礼拝の中でもいつも祈っているけれど、あまりスラスラと祈ってはいけないのかもしれないという気がしている。
執拗に?
イエスは続けて、執拗に祈るようにと言われる。真夜中に友達が来たときに、パンを借りにいったとき、最初は面倒だからと断られても、何回も頼めば与えてくれるという。友達だからということでは与えてくれないが、しつように頼めば与えてくれる、という。
いったいどういう状況なのだろうか。真夜中に友達が来るということがよくあったのか。その友のためにパンを用意しようという気持ちを持っているというのもまたすごい。しかも別の友のところに借りに行ってまで。自分の家にパンがない、用意できないというほど貧しいということか。それでも友のために食べ物を用意しようというのか。なんとしてもその友のために、ということなのか。
イエスはそういう風に祈れといわれているようだ。執拗に祈れと言っているみたいだ。でもそんなに祈らないと聞いてもらえないとなるとショックだ。そんなこと出来ないよと思う。
求めよ
だからイエスは求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい、と言われる。そうすれば、受け、見つけ、開かれると言う。人間の父も子どもが求める時には良い物を与える、そして天の父は求める者に聖霊を与えるというのだ。
なんで聖霊なんだろうかといつも思う。私たちの願ったそのものよりももっと良い物を与えられるということなんだろうか。聖霊ということは神自身を与えるということなんだろうか。
ここに書いてあるように、求めれば与えられ探せば見つかる、また父は子に良い物を与えると言われると嬉しくなって希望を持つことができる。けれど、その前の執拗に頼めば聞いてもらえるという話しの流れで言われると、それほどしつこく求めないと与えられないと言われているみたいで、そんなことできそうもない自分には与えられそうもないと悲しくなる。
マタイによる福音書にも7章7節からのところに「求めなさい。そうすれば与えられる。」という話しは出てくる。そこには、「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」となっていて、執拗に求めればというようなことは書かれていない。マタイの方がいいなあと言うか、そうであって欲しいなと思う。
聖書にはたとえ話がいっぱい出て来ている。確かに譬えで言われるからこそ分かるけれど、何に譬えるかということで意味合いが違ってくるから難しい。ある精神科医がこんなことを書いてあった。よくうつ病は心の風邪だと言われる、確かに誰もがなる可能性があるという意味ではその通りだけれど、風邪だと放っておいても治るけれども、うつ病は病院にいってちゃんと治療しないと治らない。だからうつ病は心の風邪ではなくて心の骨折ぐらいがふさわしい、そんなことを書いてあって、何に譬えるかと言うことで結構意味合いが変わってくるなあと思った。
ルカによる福音書の方は、友達にパンを求める話しと父親が良い物を与える話しと二つのたとえ話になっているけれど、この二つがうまくつながらないと気がしている。
迎え入れる
ところである祈りの本の中に、祈りとは私たちの心の中にイエス・キリストを迎え入れることである、と書いてある。私たちが神を呼び、こっちを向いてくれ、私の言うことを聞いてくれ、と言うよりも先に、イエス・キリストが私たちの心の扉を叩いてくれている、だからこそそれに答えて心の扉を開けイエス・キリストを心の中に迎え入れる、それが祈りである、と言っている。
イエスを心の中に迎え入れること、神がいつも共にいてくれること、それが一番の恵みなのだろう。その神は私たちに一番良い物をあたえようとしてくれている、私たちが求める以上にいいものを与えようとしてくれている、そのことを知ること、それが祈りなのだろう。そうしてくれる神だから求めてみよう、それだからこそしつように求めてみようという気になってくる。