礼拝メッセージより
いい人?
私はあの人が嫌いだけれど、あの人はいい人よという人がいる、あの人はいい人なのかどうか、と聞かれたことがある。
世の中にはいい人とそうでない人がいるようなイメージを持っていて、はたしてその人はどっちなんだろうかなんて考えていたけれど、ふと良いとか悪いとはか人それぞれなんだろうなと思った。誰かにとっていい人が自分にとってもいい人かどうか分からないし、いい人かどうかなんてのはそれぞれの人間関係によってひとりひとり違って当然だよな、と割と最近になって気が付いた。だから最近は、あの人はいい人よと聞いても、あなたにとってはね、と思いながら聞いている。
日本で育った制なのかもしれないと思うけれど、ひとりひとり違うってことに慣れてないなと思う。みんな違ってみんないい、と理屈では分かっていても、自分ひとりがまわりと違うと不安に思うようなところがあって、違ってて当たり前とまでは思えてないなあと感じる。
マルタとマリア
今日の聖書にマルタとマリアという姉妹が出てくる。ルカによる福音書では彼女たちが住んでいたのは「ある村」としか書かれていないが、ヨハネによる福音書では彼女たちはベタニヤというエルサレムに近いところに住んでいたと書かれている。そして彼女たちにはラザロという一人の兄弟が居て、彼はイエスに生き返らされたことが書かれている。イエスはこの3人を良く知っていたようで、ヨハネの福音書には「イエスは、マルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。」とある。イエスは彼らとかなり親しくしていたようだ。
イエスを迎え入れた時、マルタは出来るかぎりのもてなしをしようとして忙しく働いている。「一行が」とあるように、この時お客はイエス一人ではなく何人かの同伴者もいたようだ。
その人たちをもてなすためにマルタはとても忙しくしていたようだ。彼女は自分がこんなに忙しくしているのにちっとも手伝おうとしないで、イエスのそばでじっと話を聞いているマリアのことでいらいらしてくる。
マルタはイエスにむかって、妹に手伝いをするように言ってくれと頼む。マルタはマリアに聞いてもらっていることを喜んでいるイエスの態度も気に入らなかったのかも知れない。
しかしイエスはマリアにむかって姉の手伝いをするようにとは言わなかった。逆にマルタのほうをたしなめる。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
良いもの
今日の話しは、マリアの様にイエスの話しを熱心に聞くことこそ第一なのだ、もてなしなんてのはそれに比べれば重要ではない、そんな意味だと思っていた。
39節に「マリアは主の足もとに座って」という言葉がある。この、足もとに座る、という言葉は弟子となるというような意味合いがあると聞いたことがある。師匠の足もとに座るということは師匠の弟子となるということになるらしい。そして基本的にそこに女性は含まれてはいなかったそうだ。
当時の一般的な社会での風習として、女性には客を接待する役回りとなっていた。それを怠って女性が男のように弟子としてふるまうなどということはけしからんことだったらしい。そういう点でもつまり当時の常識としてはマリアの言い分は至極もっともなことだったようだ。
この時マリアがどんな状況だったのか、マリアにとってイエスの話しを聞くことがどれほど大切だったのかはよく分からない。しかしマリアにとっては何としてもイエスの話しを聞かないではいられない状況だったのかもしれない。
だからこそイエスは良いものを選んだんだ、と言われたのではないかと思う。マリアにとっては今はイエスの話しを聞くことが何よりも大事なことだったんだろうと思う。それは女のくせにお客さんの世話もしないで何をしているのかと言われるようなことかもしれないけれど、しかしマリアにとっては今一番必要なことなのだということなのかなと思う。自分にとって本当に必要なものを選んだから、イエスは良い方を選んだと言ったのではないかと思う。
思い悩み
マルタがどういう状況でイエス一行を迎え入れたのかはっきりしないけれど、38節を見ると「マルタという女がイエスを家に迎え入れた」と書いてある。
イエスを家に迎え入れたのもマルタだった。人をもてなすことが得意で好きだったんじゃないかなと思う。この時もイエスに対して出来る限りのもてなしをしようと思っていたのではないかと思う。
マリアも当然手伝ってくれるだろうと思ってあれもこれもしたいと考えていたんだろうと思う。なのにマリアはイエスにべったりで手伝ってくれない。イエスもそんなマリアに何も注意してくれない、これじゃあ満足なもてなしができないという気持ちが強くなって、いらいらしてきたのではないかと思う。
そんなマルタに対してイエスは、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と語った。
そんなにいらいらしなさんな、今マリアにとっては自分の話しを聞くことがなによりも大事なんだから、とイエスは言っているんじゃないかなと思う。
ひとりひとり
だから今日の話しはイエスをもてなすことよりもイエスの話しを聞くことの方が大事なことだと言うことを言いたいのではないだろうと思う。教会で食事の準備をするよりもメッセージを聞くことの方が大事なことだと言いたいということではないだろうと思う。
その人にとって今大事なことがある。人それぞれに、ひとりひとりその時その時に大事なことがある、それを取り上げてはいけないということなんだろうと思う。
また自分はこんなにしているんだからあの人も同じようにすべきだと思ってはいけない、あなたもしなさいと言って相手にとって大切なこと大切な時間を奪ってはいけないということを言っているのかなと思う。
そしてイエスはそんな風にひとりを大事に見ているということでもあるんだろうと思う。いらいらしているマルタのことも見ているし、自分の言葉を求めているマリアのことも見ている。イエスは人間全部をひとまとめに見ているんじゃなくて、ひとまとめに語りかけているのでもないようだ。ひとりをひとりとして見ているということなんだろうなと思う。私たちもひとりひとりを大事に見てくれているのだと思う。
これを聞いたマルタはどう思ったんだろうか。どう返事したんだろうか。それにしてもイエスももうちょっと優しい言い方で言ってあげれば良かったのになと思う。