礼拝メッセージより
名前は?
今日は「善いサマリア人」という小見出しがついている。昔の訳では「よきサマリアびと」だったと思う。
昔読んだ本の中に、詳細は忘れたけれどこんな話しがあった。
ある人が困ったことになった時にたまたま通りかかった人が助けてくれた。助けられた人がお礼をしたいと言ったけれど断られた。ではせめてあなたの名前を教えてくれと聞いたところ、その人は聖書に出てくるよきサマリア人の名前は分かりますか、それを教えてくれたら私も自分の名前を教えましょうと聞き返した。分かりませんと答えると、では私も名前を言うのをよしましょうと言って去って行ったという話しだ。
ちょっとかっこいい話しだなあ、僕も名前を聞かれるようなことがあったとして同じように答えたらかっこいいなあなんて思いつつ、サマリア人の名前なんていちいち覚えてるわけがないだろうと思っていた。でも後でよく見るとイエスはサマリア人としか言っていないので名前は出てこない。これじゃあ誰も分からんわな。
えいえんのいのち
この善いサマリア人の話しの発端は、律法の専門家がイエスに「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と質問をしたことだった。
それに対してイエスは逆に律法の専門家に聞き返す。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」
律法の専門家は旧約聖書の申命記6章5節のところを引用して答える。「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」ここはユダヤ人たちが一日に2回唱える「シェマの祈り」という祈りがあってその中にも入っているそうだ。それに続けてレビ記19章18節、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」と答えた。敬虔なユダヤ人たちにとっては、神と隣人が愛されるところにおいて律法は満たされると考えられており、そのことを誰もが知っていたそうだ。
そしてイエスも「正しい答えだ」と答えた。しかしイエスはそれだけでは終わらず、続けて「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」と語った。
律法の専門家はどんな気持ちでこの質問をしたのだろうか。この福音書では25節で「イエスを試そうとして」と書かれているけれどどうなんだろう。これはこの話しを伝えた人か、あるいは福音書をまとめたルカか、どちらかの注釈だ。29節にも「自分を正当化しようとして」と出てくる。悪意を持って質問したと解釈しているようだ。確かに律法の専門家がそういう気持ちで聞いたのかもしれないけれど、実際にはこの人の気持ちは本当は誰にもわからないはずだ。この律法の専門家とイエスの二人の会話だけを抜き出すと試そうとしたかどうか分からない。むしろ試そうとしてではなく本当に永遠の命のことを心から聞きたかったのかもしれないという気がしている。
なのにイエスから逆に律法にどう書いてあるか、どう読んでいるかなんてことを言われてしまった。神を愛し隣人を愛することだ、と答えたけれど、そんなことは誰でも知っているでしょう、律法のことではなくて何をすればいいのかを教えて欲しいと思ってたんじゃないかと思う。ところがイエスは、その通りだ、それを実行しなさい、と言った。律法の専門家にとって予想外の答えだったんじゃないか、聞きたいのはそんなわかりきっていることじゃないというような気持ちだったんじゃないか。思いもしなかった、耳にたこができてるような律法を改めて言われたことで、思わずじゃあ隣人とは誰ですか、と聞き直したんじゃないか。隣人を愛することが大事だということはずっと前から知っていたけれど、それを実行しろと改めて言われたことで、そういえば隣人って誰なんだろうと初めて疑問に思ったんじゃないかな。先週からそんな気がしてきている。
よいサマリアじん
そこでイエスが語ったのが「よきサマリアびと」の話しだった。このたとえ話は単純明快だ。
エルサレムからエリコへ降っていく途中に追いはぎにあい半殺しにされた人を、祭司やレビ人は知らん顔をして通ったが、サマリア人は助けた、という話しだ。
さいしとレビびと
エルサレムからエリコまでは約27kmで5、6時間かかるそうだ。この道は悪名高い道で、誰かが強盗に襲われることがしばしばあったらしい。
エリコは祭司の町だった。祭司はエルサレム神殿でささげものをするという務めを終えて帰宅する途中だったのだろう。レビ人も同じように神殿での務めを終えての帰り道ということだろう。
祭司もレビ人もユダヤ教社会では尊敬され尊重される人たちだった。しかし彼らは半殺しの目にあっている者を遠巻きに見て通り過ぎてしまう。
なぜ彼らは傷ついている人に関わらなかったのか。理由は語られていない。祭司やレビ人は神殿に関わる仕事をしていたので特別に清くしていないといけなかった。死体に触れると汚れるので、死にかけている人に関わって死んでしまったら汚れてしまう、だから関わらない方が安全だ、と考えたのかもしれない。汚れてしまうと自分の仕事にも支障が出てしまう、神に仕えるという大事な仕事に支障がでてはいけないので避けたということかもしれない。面倒なことに関わるのを嫌がった、ただ自分がやらなくても誰かがやるさということだけじゃなくて、それなりの理由を見つけることはできるようだ。
サマリアじん
そこへサマリア人が通りかかり、彼は半殺しの目に遭っているその人を助けて介抱し、宿屋までも連れて行った。それがイエスの語ったたとえであった。
サマリア人のことをユダヤ人は見下していた。かつては同じ民族であったが、イスラエルが北と南に別れた後に、サマリアのある北の国をアッシリアという国が占領し、アッシリアは東の方の民族を移住させてしまった。その結果、民は混血となり、宗教も東の宗教とイスラエル古来の信仰とが混じってしまった。そのために南の国のユダヤ人たちはそんなことからサマリア人を軽蔑し、サマリア人の信仰を異端として見下していたようだ。
そんなサマリア人が、つまり自分が見下していた側の人間が助けたという話しだ。ユダヤ民族の代表でもあるような祭司やレビ人は見捨てたけれど、軽蔑されていたサマリア人が助けたという話しだ。
しなさい
イエスは律法の専門家に、このたとえ話の中で隣人になったのは誰かと聞き、律法の専門家がその人を助けた人だと答えると、あなたも同じようにしなさいと言った。
たとえ話の前の質問に律法の専門家が答えたときにも、それを実行しなさいと言い、たとえ話の後の質問に答えた時にも、同じようにしなさいと言った訳だ。念押しをしたみたいだ。
律法には偶像を礼拝してはいけないとか安息日には働いてはいけないとか、してはいけないということがいっぱい書いてある。でも律法はそれだけではなく神を愛し隣人を愛しなさいというようことも書いてある。律法はやってはいけないことだけではなく、やるべきことも書いてある。よくは知らないけれどそこが法律との違いではないかという気がしている。
そしてイエスは律法の中心が神を愛し隣人を愛すると言うことだということが度々出てくる。それを行う事で永遠の命を得られると言う。
神を愛す?
神を愛し隣人を愛するという言葉は教会ではよく耳にする言葉だけれど、少し前から神を愛するとはどういうことなんだろうかと思い始めている。神に愛されるということはわかる気がするけれど神を愛するとはどういうことなんだろうかと思っている。しかも心を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして神を愛するとはどういうことなんだろうか。律法の専門家にはそっちの方も聴いて欲しかったと思ったりもするけれど、少し前からそれは思いっ切り神に愛されることかもしれないという気がしている。神が人を愛する時、神の一番の願いは人がその愛を精一杯受け取ってもらうことなんだろうと思う。神の一番の願いを実行することが逆に人が神を愛することになるんじゃないのかななんて思う。だとすると神を愛するとは神の愛を精一杯受け止めるということなんじゃないかなと思う。ただの屁理屈かもしれないけれど。
精一杯
そして神の愛を精一杯受けて、その愛をもって隣人を愛すること、そうすることで永遠の命を受け継ぐことが出来ると言われているように思う。永遠の命とはいつまでも死なない命ということではなくて、神と自分、隣人と自分とが愛によって繋がっている状態のこと、そういう生き方のことなんだろうなと思う。そんな繋がりを持つ喜びのある命、それが永遠の命なんじゃないかなと思う。律法の専門家にはそんな喜びが感じられていなかったんじゃないか、だからそれを得るためにはどうすればいいのかと質問したんじゃないかなと思う。
やってごらん
隣人を愛しなさいと言われてもなかなか実行できないなあと思う。自分も大変なのにとか、誰かがやるだろうとか思ってしまうことばかりだなと思う。
喜びがなかったり足りなかったりするのは、まさに神の愛を精一杯受けてないからじゃないか、そして隣人を愛していないからじゃないか、そう言われているような気がしている。
自分のことだけを見るんじゃなくて、神を見、隣人を見なさい、視点を変えて大切なことを実行しなさい、精一杯愛を受けて精一杯愛を与えなさい、そこにこそ喜びがある、そんな生き方こそが永遠の命なのだ、イエスはそう言われているんじゃないだろうか。