礼拝メッセージより
youtube
先週ちょっとyoutubeに嵌まってた。新幹線が故障したことでダイヤが乱れて、その人が乗っていた新幹線もどんどん遅れていって、結局終点に着いた時には夜が明けていたなんていう動画を見たのを皮切りに、その人の動画や車で旅行して車中泊をしている人の動画なんかを中心に見ていた。
変なテレビ番組より面白いなあと思う。最近は芸人の顔ばかり写すようなテレビが多くて、特に答えを隠しておいてそれを見たスタジオにいる人のびっくりした顔を先に写すというようなのが多くて、そんな用も無いのに写す顔を見る度にいやになっているけれど、そんなのよりもyoutubeの方がよっぽど面白いなあと思う。
そんな動画を作って大勢の人に見てもらうことでお金も儲けられるみたいで、それを仕事にしている人もいて、そういう人のことをyoutuberというらしくて、最近は将来youtuberになりたいという子もいるらしい。
でもそれで儲けようと思うと、新しい動画をどんどん作って見てもらわないといけないわけで、そのアイデアを考えるだけでも大変だろうし、例えば旅の動画を作るためには実際に旅をしないといけないわけで結構大変だろうな、それをやり続けるのはすごいな、なんて思いつつ見ていた。
喜び
10章の初めにイエスが72人を任命して自分が行くつもりの町や村に二人ずつ派遣したことと書いてある。そして17節ではその72人が帰って来たことが書かれている。
彼らはイエスの名前によって悪霊さえも屈服させることが出来たことを喜んでいる。悪霊を追い出す術を手に入れられたらいいなと思うし、誰にも真似できないようなことができたらいいなと思う気持ちがずっとある。子供の時から超能力というようなものに憧れていたし、勉強でもスポーツでも周りよりも優れていたいという思いを持っている。結局の所は周りの人にすごいだろうと自慢したいとか、すごいねと言われたいという気持ちなんだけれど。
何か特別なことができるとか、特別なものを持っているということで自慢できることは確かに嬉しいことだけれど、一つのことをいつまでも自慢出来るわけでもないし、いつもいつも自慢出来るような成果を上げ続けることも難しいし、そんな成果を上げ続けないといけないとなるとそれはそれで大変なことだ。例えばスポーツの大会で優勝したりするとみんなからすごいねと褒められてそれは本当に嬉しいことだけれど、褒められ続けるためには次も次もずっと優勝しないといけなくなる。それは結構苦しいことなんじゃないかなと思う。もし人から褒められることしか喜べないとしたらとても苦しいことになりそうだ。
私たちは何を喜ぶのか。誰にも負けない優れた才能を持つことか、いつも異性を振り向かせるような容姿端麗になることか、すばらしい功績を上げることか、一流の学校に入り、一流の企業に入り高収入を挙げることか。あるいは超能力といわれるような力を持つことか。
確かにどれも持ちたい、持てればきっとうれしいだろう。
72人の弟子たちも悪霊を屈服させることができたということで、かなり興奮していたのかもしれない。こんなすごいことが出来るようになった、と。
しかしイエスは、「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ自分の名が天に記されていることを喜びなさい」といわれる。
ふるさと
自分の名が天に記されているとはどういうことなんだろうか。天の国というか神の国というか、そこに名前があるということ、それはそこの国の一員であるということなんだろうと思う。神の国が自分の家というか本拠地というか帰るべきふるさととなっているということなんだろうと思う。
昔見た映画だかテレビだかで、公園で子どもたちが遊んでいる光景があった。子どもたちがいろいろなおもちゃで遊んでいる時、ひとりの子どもは他の誰も持っていないような高価なおもちゃをみんなに見せびらかして自慢していた。「いいだろう、お前らもってないだろう。」他の子どもたちも「いいなあ」と羨ましがる。一緒に遊んでいる間はその子はヒーローだ。
やがて夕方になり、みんな家に帰っていく、しかしその子は最後まで広場に残ってあまり家に帰りたがらない。帰っても誰もいない、親はあまりかまってはくれない、その罪滅ぼしとして高価なおもちゃを与えていた。その子にとって、家という建物はあっても実は家庭とはいえないような家だった。その子にとって喜んで帰る家はなかった。おもちゃを自慢している時は確かに嬉しい、しかし喜んで帰るべき家がない悲しさはおもちゃを持つ喜びをあっけなく吹き飛ばしていた。
昔会社に行ってる時、と言っても2年しか行ってないけど、すぐ上の上司がしょっちゅう怒る人で、それも大声で100人位いるフロア全体に聞こえる位の声でよく怒られていて、会社に行くのが苦痛だった。丁度国鉄がJRに変わった時だったけれど、確か朝7時23分の電車で一駅分だけ乗って通勤してたけれど、このまま電車に乗ってどこか遠くまで行きたいなとよく思っていた。
でも嫌だからと逃げていたらずっと逃げ続けないといけないだろうなという思いもあったし、実際には実行する勇気もなかったのでそのまま電車に乗ってどこかけ行くことはなかった。
その頃から、旅行が楽しいのは帰る場所があるからなんだろうなと思うようになった。帰る場所がなかったり、安心して帰る場所がなかったりすると旅行も楽しくないんだろうなと思う。安心して帰る場所があるからこそ旅行も楽しいじゃないのかなと思う。
イエスは、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさいと言った。もう既に書き記されている、ということを前提にしているみたいだ。天の国、神の国、そこに既にあなたたちの名前がある、あなたたちの帰るべき故郷となっている、そう言っているのだろうと思う。
帰るべき家があるからこそ安心して旅を楽しめる。あなたたちには神の国という帰るべきふるさとがあるんだから、あなたたちは人生の旅を楽しなさいと言われているような気がしている。もちろん人生の旅は楽しいだけじゃなくていろんな大変なことも苦しいこともある。でも安心して帰るふるさとがある、そのことこそ喜びなさいといわれているのだろうと思う。
何が出来るとか出来ないとか、何を持っているとか持っていないとか、そんなことにばかり目を奪われているなあと思った。一番目を奪われているのは礼拝の人数で次が会計報告。それらが増えることはもちろん嬉しいけれど、それよりも、もうすでに神の国が私たちのふるさととされていることをこそ喜んで生きたいなと思った。