礼拝メッセージより
大預言者
旧約聖書に似たような話しがある。
列王記上
17:17 その後、この家の女主人である彼女の息子が病気にかかった。病状は非常に重く、ついに息を引き取った。
17:18 彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」
17:19 エリヤは、「あなたの息子をよこしなさい」と言って、彼女のふところから息子を受け取り、自分のいる階上の部屋に抱いて行って寝台に寝かせた。
17:20 彼は主に向かって祈った。「主よ、わが神よ、あなたは、わたしが身を寄せているこのやもめにさえ災いをもたらし、その息子の命をお取りになるのですか。」
17:21 彼は子供の上に三度身を重ねてから、また主に向かって祈った。「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください。」
17:22 主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになった。子供は生き返った。
17:23 エリヤは、その子を連れて家の階上の部屋から降りて来て、母親に渡し、「見なさい。あなたの息子は生きている」と言った。
17:24 女はエリヤに言った。「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」
列王記下
4:32 エリシャが家に着いてみると、彼の寝台に子供は死んで横たわっていた。
4:33 彼は中に入って戸を閉じ、二人だけになって主に祈った。
4:34 そしてエリシャは寝台に上がって、子供の上に伏し、自分の口を子供の口に、目を子供の目に、手を子供の手に重ねてかがみ込むと、子供の体は暖かくなった。
4:35 彼は起き上がり、家の中をあちこち歩き回ってから、再び寝台に上がって子供の上にかがみ込むと、子供は七回くしゃみをして目を開いた。
4:36 エリシャはゲハジを呼び、「あのシュネムの婦人を呼びなさい」と言った。ゲハジに呼ばれて彼女がエリシャのもとに来ると、エリシャは、「あなたの子を受け取りなさい」と言った。
4:37 彼女は近づいてエリシャの足もとに身をかがめ、地にひれ伏し、自分の子供を受け取って出て行った。
旧約聖書に似たような話しがあるというよりも、この旧約聖書になぞらえて今日のルカの話しができあがっているらしい。
7:15に「イエスはその息子をその母親にお返しになった」という言葉があるが、息子を母親に返すというのが前からちょっと気になっていた。小さい子を抱きかかえて生き返らせたというなら母親に返すというのもわかる。でもここでは若者よと呼びかけられていて、イエスが直接触れたとも書かれていない。母親に返したというのは旧約聖書のエリヤやエリシャが、死んだ子供と二人きりになってから生き返らせて、その後母親に返したという状景がルカの頭の中にあったからこういう書き方になったんじゃないかなと思う。
死人を生き返らせるなんてことが本当にあったのかどうかと思うし、そんなことができるならどうしてイエスはそこら中の死人を生き返らせなかったのかと思ったりもする。イエスにはそんなすごい力があるということかもしれないけれど、やがてはこの息子もやがてはまた死んでしまっているはずだ。
心にかける
ルカ7:16では、そこにいた人々が「大預言者が我々の間に現れた」、「神はその民に心をかけてくださった」と言ったと書かれている。これこそがまさにルカが伝えようとしていることなんだろうと思う。
イエスは旧約に登場するエリヤやエリシャに匹敵する大預言者である、旧約聖書が約束していたメシア、キリストである、神は自分達のことを心にかけてくれている、ルカはまさにそのことを伝えるためにこの話をここに載せているのだろうと思う。
私たちもいつかは死ぬし、私たちの家族もいつか死ぬ。それは避けられないことだ。死んでも生き返らせてもらえればうれしいけれど、死ぬ度に生き返らせてもらう訳にもいかないだろう。
それよりも神が自分に心をかけてくれたということ、自分のことを心にかけてくれる方がいるということ、そのことを知ることの方が自分の寿命が少し延びることよりも、もっともっと嬉しいことなのではないかと思う。
7:13に「主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくてもよい」と言われた。」と書かれている。
どうしてここで「主」となっているのか不思議だがそれは置いといて、ここの「憐れに思う」という言葉は、はらわたがちぎれる思いに駆られるという言葉だと聖書教育に書いてあった。
はらわたがちぎれるような思いをもって私たちを憐れむ、そんな思いで私たちに寄り添う、イエスはそんな救い主である、神はそんな思いで私たちを心にかけてくれている、ルカはそのことを伝えようとしているのだと思う。
窮地
思うようにいかないことがあると人は誰もが嘆き悲しみうろたえる。家族を亡くすなんてのもまさにそうだろう。まして自分の子供を亡くすという時はどんなんだろうか。そんな事態に直面したら何をする気も起きなくなりそうだ。
一所懸命に祈ったら生き返らせてくれるかと言ったら実際にはいかないだろう。
そこまで大変なことはそうそうないと思うけれど、日常的にもいろんな失敗をしたり挫折をしたりなんてことがある。ヘマをやらかして落ち込むこともしばしばだ。あるいは心配ごとがあると夜も眠れなくなったり、いつもやってることも出来なくなったりもする。食事をする気力もなくなったりもする。
しかしそんなヘマをして落ち込んだ時にも、何をする気力がなくなったような時にも、私たちに寄り添ってくれる、いつも心にかけてくれる、イエスはそんな救い主、キリストである、福音書はそのことを告げているようだ。
どういう姿でどういう風に寄り添ってくれているのかはよくわからない。見えもしないし触ることもできない。しかしイエスは私たちの見えない形で、見えない仕方で私たちといつも共にいてくれている、私たちを根底から支えてくれているのだと思う。
それはイエスが私たちを大切に思い、大事に思ってくれているから、心にかけてくれているからということらしい。そんなに思ってもらうような人間じゃないと思うし、なんだかこそばゆい感じもするけれど、でもありがたく嬉しいことだ。