礼拝メッセージより
レビ
レビってのはどんな人だったのだろうか。聖書には突然登場する。聖書が書かれた当時の人はレビのことを良く知っていたから説明する必要もなかったということだろうか。
イエスはレビという徴税人がが収税所に座っているのを見かけて声をかけた。「わたしに従いなさい」。そういう風にしてまた弟子として招いた。少し前のところでシモンやヤコブやヨハネを招いた時と同じように、突然の呼びかけだった。
このころ既にイエスのまわりには大勢の群衆が集まっていた。しかしレビはその中にいなかった。その中に入ることが出来なかったのだろうか。興味があってイエスの話を聞いてみたいという気持ちがあったかもしれない。けれども群衆の中には入りたくてもなかなか入れなかったのかもしれない。
徴税人
レビは徴税人だった。徴税人をユダヤ人は憎んでいたようだ。ユダヤ人は、異邦人と付き合い支配者ローマの手先になって同胞であるユダヤ人を苦しめているとんでもないやつらだと見ていた。
ローマ帝国は税金を取り立てるのに、地元の人間を徴税人にしたそうだ。そして徴税人は決まった額以上のお金を取り立てて、その分を着服していたそうだ。ローマもそのことに対して見て見ぬ振りをするようなところがあったらしい。
そこでユダヤ人たちは、支配者の手下となって働いている、しかも同胞からお金をだまし取るような徴税人を罪人とみなし、遊女と同類の人間だと見ていた。親族の一人が徴税人になると、すべてが同じ仲間と見なされたいたそうだ。
どうしてレビがそんな皆から嫌われるような徴税人になったのかは分からない。どうしても金が必要になったからかもしれない。あるいはとにかくお金があればいい生活ができる、幸せになれると思っていたからかもしれない。しかしどうやら幸せにはなっていなかったようだ。お金は持っていたかもしれないが、お金ではどうにもできないむなしさを感じていたのではないかと思う。
レビも他の徴税人同様に、回りから罪人として、あるいは裏切り者と見られていたのだろう。群衆がイエスのまわりに群がって大騒ぎしている間、レビがイエスについていきたいと思っても、周りの群衆がそれを許さないようなそんな状況だったのだろう。
きっとレビの耳にもイエスの噂は届いていたであろう。預言者か、あるいはメシヤかもしれない男が現れたというので、多くの群衆がついていっていたこともきっと知っていたであろう。もしかしたらこのイエスがいろんなことを変えていくかもしれない、自分の人生をも変えるかもしれない、そんな淡い期待も持っていたかもしれない。そのイエスが自分の収税所の前を通りすぎていく。しかしレビは座って見ているだけだったようだ。
呼びかけ
こんなレビにイエスは声を掛けた「わたしに従いなさい」。
イエスの呼びかけにレビは何もかも捨てて立ち上がりイエスに従ったというのだ。
自分から道を切り開くことができないでいたレビに、自分から立ち上がることができずにいたレビにイエスの方から声をかけたのだ。大丈夫、心配することはない、さあこっちへ来なさい、と呼びかけているような言葉だったのではないか。
再出発
そのイエスの言葉はレビにとっては暗闇の中に差してきた光のようなものだったのではないかと思う。どっちに行けばいいのか分からない、何をどうすればいいのか分からない、そんな時にかけられた言葉だったのではないか。だからこそレビは立ち上がり、何もかも捨ててイエスに従ったのだろう。
レビはイエスの言葉によって立ち上がった。そしてそれはレビにとって大きな喜びでもあったようだ。その喜びの現れが、イエスを食事に招待したことだった。レビはイエスを食事に招待したが、イエスだけではなく、イエスご一行様みんなを食事に招いたらしい。その食卓には多くの徴税人や罪人がその席についていた。そんな人達が大勢イエスに従っていた。レビはそういうイエスとの繋がりの中に喜びを見いだしたようだ。
ファリサイ派
当時はよく客を招いての食事が、戸外や中庭や、見通しのきく屋上でなされたという。ここに義人であるファリサイ派が登場しこれを見て弟子たちに言う。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と。イエスに直接言わないで弟子たちに言うところがまたいやらしい。
ファリサイ派の人たちはそうやってイエスを非難した。どうしてファリサイ派の人達は、イエスを非難する役にまわってしまったのか。
この人達もイエスに興味を持っていたのではないか。旧約聖書に預言されているメシアがやがてやってくるということはよく知られていたようだ。ましてファリサイ派の人達はそんなことは重々ご承知だった。しかし、彼らにとってはメシアとは、イスラエルを政治的に強い国、独立の国家にしてくれる者と考えていた節がある。その彼らのイメージとイエスとは似てもにつかないものであったらしい。
しかしそれ以上に、メシアは自分たちこそ招くはずだという思いがあったのではないか。汚れた罪人よりもまず自分たち正しい人間を招くはずだ、という気持ちがあったのではないか。あんな奴らと仲良くしている者がメシアであるわけがないと思っていたのではないか。彼らにとっては正しい人間が罪人と一緒に飯を食うなんてことは考えられないことだったようだ。そんなことは許し難い許されないことだったらしい。
立ち上がり
イエスはそんなファリサイ派に対して、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と答えた。
しかしファリサイ派の人が言うように、神は正しい人をこそ招くと考えるのが普通だと思うのが普通だと思う。罪も穢れもなくしてから、あるいは身を清めてからじゃないと神の前に立てないと思うのが普通なんだろうと思う。ファリサイ派の人達はそのためには律法を守ることが第一だと考えていたようで、そういう正しい人こそ神に招かれ喜ばれると思っていたようだ。ファリサイ派じゃなくったって誰でも普通はそう思うだろう。
ところがイエスは、自分は正しい人ではなく罪人を招くと言うのだ。
自分の罪、自分のだらしなさ、自分の無知や無能、そんなものを私たちはいつも嘆いている。自分の駄目な所ばかりが気にかかる、あの時あんな悪いことをしてしまった、あの時あんな失敗をしてしまった、自分はなんてだめなんだろうと思う、だからと言って今度こそと立ち上がる力もとうになくしてしまっている、そんな私たちだ。いろんなことに打ちのめされて人生にも疲れはててぼろぼろになっている私たちだ。
私たちは自分を変えないといけない、正しく立派に信仰深くしないといけない、こんな自分では駄目なんだと思ってしまっているのではないかと思う。
しかし、そんな自分を駄目だと思い自分で自分を卑下している今のあなたを招くためにきた、あなたに会いに来た、あなたのために来た、イエスは私たち一人一人にそう語っているのではないか。
イエスは駄目な罪深いあなたを招くと言っているのだと思う。招かれることで悔い改めが起こるわけだ。悔い改めたら招かれるのではない。招きに応えること自体が方向転換でもあるわけで、それはもう悔い改めなのかもしれないとも思う。
レビは盛大な宴会を開いたと言う。イエスの招きに応えて立ち上がるとき、そこには盛大な宴会を開きたくなるような大きな喜びが待っている、この福音書はそのことを伝えているようだ。イエスの招きはそんな大きな喜びへの招きなのだと思う。
私たちもこのイエスの招きに応えて立ち上がっていきたいと思う。そこにはきっと大きな喜びが待っている。