礼拝メッセージより
ゲネサレト湖
ゲネサレト湖はガリラヤ湖とも言われる、イスラエルの死海の北にある湖。南北21km、東西13km位で米粒のような形をした湖。海抜はマイナス213mと書いてあった。
丁度呉と音戸と江田島の間の海を一回り大きくしたような湖のようだ。
今日の聖書はそのゲネサレト湖畔での出来事だ。
シモン
少し前の箇所で、イエスはかつてシモンの家でシモンのしゅうとめが高い熱を出していたのをいやしたことが書かれているので、当然イエスに会っていたと思われる(4:38)。後でペトロと呼ばれるようになるシモンは漁師をしていて、しゅうとめがいるということは結婚もしていたということになる。
シモンはイエスのことをどう思ったのだろうか。群衆がイエスから神の言葉を聞こうとして押し寄せて来たとあるが、その時シモンは漁を終えて網を洗っていた。
押し寄せる群衆をよそに、シモンは仕事をしていたわけだ。ちょっと醒めた目でその光景を見ていたような感じがする。
しかしイエスが群衆に話しをするためにということで頼まれると、シモンは自分の船を漕ぎ出した。しかしイエスは話しが終わると、沖に漕ぎ出して網を降ろし漁をしなさい、なんてことを言いだした。
仕方ない
その時シモンは夜通し漁をしたのに何も取れずに帰ってきて網を洗っていた。ということは漁を終えて後片づけをしていたということのようだ。魚が捕れていればまだしも、一所懸命に働いたのに魚が捕れないという心身共に疲れていた時だったろうと思う。片付けを早く終わらせて帰って眠りたいというような気分だったんじゃないかと思う。
そんな時にイエスからもう一回漁をしなさい、なんて言われてしまったわけだ。一体何を言ってるんだと思ったのではないか。しゅうとめを癒してもらったという恩人だとしても素人にそんなことは言われたくない、今更獲れるわけがない、と思ったのではないか。だからシモンは、夜通し漁をしたのに取れなかったと言ったのだろう。
シモンは「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言ったと書いてある。どういう気持ちで言ったのだろうか。イエスの言うことならばと素直に従おうと思って言ったのだろうか。それともイエスの確信に満ちた言葉に圧倒されて、しんどいけどやってみようかという気持ちになったのだろうか。
多分そんな前向きな気持ちではなく、しゅうとめを元気にしてもらった恩もあるから無碍に断るわけにもいかない、断れそうな雰囲気でもないし、どうせ何を獲れないけれど一度網を降ろせば満足するだろう、そうしたらもう偉そうに命令することもないだろう、というような気持ちだったんじゃないかと思う。
恐れ
そんな気持ちで漁をしたのに大漁になったことでシモンはびっくりしてしまったんだろうと思う。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」なんてことを言ったという。
旧約聖書の時代からイスラエルでは神を見た者は死んでしまうという考えがあったようだ。シモンはあまりの驚きでイエスの事を神のように近づきがたい存在、この世のものとは別の神聖な存在だと思ったんだろうと思う。近づくと罰を受けてしまいそうな高貴な方だということで、離れていてくれ、自分を罰しないでくれと思ったんだろう。死ぬかもしれないと思ったかもしれない。シモンのこの言葉はそれほどに狼狽していたことから、つい口から出て来たほとんど訳の分からない言葉なんじゃないかと思う。
しかしそれに対してイエスは、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」なんてことを言う。これもちょっと訳の分からない言葉だ。人間をとる漁師って一体なんなのかと思う。シモンたちはこれを聞いてすべてを捨ててイエスに従ったと書いてあるが彼らはイエスの言っていることが分かったのだろうか。多分それほど分かってはいなかったんじゃないかな。でも分からないけれど、自分を引きつける圧倒的な力というか圧倒的な魅力というか、そんなものを感じてイエスについていったんじゃないかと思う。
大漁
シモンがイエスの力というか魅力を知ったきっかけ、それはイエスの言葉に従ってもう一度漁をしたことだった。一晩中漁をしたのに何も獲れず疲れ果ててやめた時だった。
一所懸命にやったのに何の収穫もない、そんなことを私たちもよく経験する。何の成果も上がらない時、ああ全く無駄だったと思い疲れ果てて意気消沈する。そしてそれ以上続ける元気もなくしてしまうことがある。
シモンがしたことは、そんな時にイエスの言葉に従ってもう一度漁をしたことだった。いつもしていることをもう一度することだった。そこで大漁になった。そしてイエスの力を経験した。
イエスは私たちに対しても、あなたが出来ること、あなたがいつもしていることをもう一度やってみなさいと言われているのかもしれない。目に見える成果に捕らわれないで、結果が見えない時もやり続けなさい、と言われているのかもしれない。そしてそこには大漁が待っていると聖書は告げているようにも思う。
毎週毎週礼拝で説教をしてるけど、礼拝の大勢の人が来るようになるわけでもなく、それこそ夜通し苦労しましたが何もとれませんでした、という気分になることが多い。
準備が足りないからあるいは勉強が足りないからだろうかとか、そもそ能力がないからだろうかなんてことを思う。そしてしんどくなってくると説教をしなくてもよくなったら楽だろうななんて思うこともよくある。なんだか今日は、それでもいつものように説教を続けなさいと言われているような気にもなっている。
そしたら急に礼拝の人数が増えたなんてことになればいいけどそうはなってない。そこで大漁を経験できればいいなと期待するけれどなかなかならない。大漁っていうと大勢の人が礼拝にくるとか、多くの人がバプテスマを受けることのように思ってしまうけれど、本当はそんなことじゃないのかもしれない。
というのも、ある教会のHPを見てたら、収穫は多いが働き人は少ない、という聖書の箇所の説教があって、収穫の多さというのは教会の人数の多さではなくて、そこにいる人とじっくりと関わる、その関わりの深さのことだ、というようなことを言っていた、ように思う。
シモンはイエスの言葉に従って魚の大漁を経験した。私たちもイエスの言葉に従うことで大漁を約束されているということかもしれない。私たちにとっての大漁とは多くの喜びのことなのではないかという気がしている。教会が突然大人数になるということではなくて、ここに来る人達、ここにいる人達との深い関わりをもつことと、そこから多くの喜び、大きな喜びを経験することになる、そんな希望をルカは伝えているような気がしている。
だからあなたのできること、あなたのいつもしていることをやり続けなさいと言われているいるようだ。私たちも一人の人との関わりを大事にすることを続けていきたい、そこにはきっと多くの喜びが待っている、聖書はそう告げているのではないかと思う。