礼拝メッセージより
よその子
自分の子はそうでもないけれど、よその子はすぐ大きくなるような気がする。たまにしか会わないからそう思うのだろうけれど、あんなに小さかった子がもうこんなに大きくなったのかと感慨にふけるようなこともあるけれど、小さかった時のイメージが強いとどうしても若輩者という見方になってしまいがちだ。
ふるさと
今日はイエスが故郷のナザレの会堂で話しをしたという箇所だ。
会堂というのはキリスト教にとっては教会のようなところで、ユダヤ教の人達が安息日に集まって礼拝する場所のことだ。
イエスの近所の人達の多くの人にとっては、『この人はヨセフの子ではないか』というようにイエスは生まれた時からよく知っている若者だったようだ。そんなイエスが安息日に会堂で教えはじめたということ自体が驚きでもあったようだ。会堂では会堂長が会衆から一人を選んで聖書朗読と説教をさせることができたようで、特に資格のあるものだけが説教をしたのではなかったそうで、話しをすること自体はそれほど特別なことではなかったらしい。
このルカによる福音書では最初はイエスをほめたけれど、イエスが預言者は自分の故郷では歓迎されない、なんて随分挑戦的なことを言ったので皆が憤慨して崖から突き落とそうとしたと書かれている。
同じ内容のことがマルコによる福音書6章1節以下にも書かれている。そこでは「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言ったとしか書かれてなくて、郷里でも癒してくれと言うに違いないとかエリヤやエリシャの話しをしたとは書かれていないし、人々が憤慨したとも書かれていなくて、反対にイエスの方が人々の不信仰に驚かれたと書かれている。
予想外
どちらにしてもナザレの人々はイエスの生い立ちや境遇の方が気になってしまっていて、イエスの言葉を素直に聞くことができなかった、あるいは言葉を聞いてはいてもそのすごさを理解できなかったということのようだ。
自分たちのそれまでのイメージのためにイエスの本当の姿が見えなかった、イエスをよく知っていると思っているために却ってイエスの本当の姿が見えなかったのだろう。
またナザレの人々がイエスを受け入れなかった理由のひとつが、イエスがあまりにも普通の人だったからではないかとも思う。ずっとエリート街道を邁進してきていたとしたら周りの人々も一目置いたかもしれない。あるいはいかにも神々しく光輝くような人物だったなら人々の反応も恐らく違ったであろう。何か普通ではないものを持っていたとするならば、特別なものがあったならば、あるいは周りの人達もイエスの話しをもっと真剣に聞いたかもしれない。あいつは昔から何か違っていたから、いずれはこうなるだろうと思っていた、ということになったかもしれない。
でも、多分イエスはあまりにも普通だったのではないか。頭の上に輪っかがあるような宗教画がよくあるけれど、そんなものはもちろんなかっただろうし、もしかすると普通よりももっと貧しく身なりもずっとみすぼらしかったのかもしれないと思う。
イエスは父のあとをついで大工になったらしい。イエスは長男として家族を支えるために大工の仕事をしていたようだ。そして弟たちが家族を支えることができるようになるまで普通の青年であったのだろう。弟たちが家を支えることが出来るのを待って、神の国を知らせる活動を始めたのかもしれないとも思う。それまでのあまりの平凡さの故に人々はイエスを受け入れられなかったのかもしれないと思う。
しかもイエスの語る事柄が自分達のあまりにも予想外の内容だったから、ナザレの人達はイエスの言うことが理解できなかったというか、受け入れることが出来なかったというか、信じることができなかったのではないかと思う。
思いもよらない
かつて神はエジプトから自分達を救い出してくれた、バビロンからも連れ戻してくれた、今また外国に支配されているけれど、やがて救い主がやってきて、再び強い国にしてくれる、ユダヤ人たちはそんな風に思っていたらしい。神はそのように偉大な力で自分達を助けてくれる、計り知れない力で自分達を導いてくれる、またそれこそが神だ、というような思いを持っていたのではないかと思う。
私たちも同じような思いを持っているのではないか。全知全能というような言い方をするけれど、神なのだから何でもできる、どんな奇跡だって起こせる、病気も治してくれる、そんな圧倒的な力でもって自分を助けてくれるはずだ、是非そうして欲しいと願う気持ちも強い。そのためにはちゃんと信仰心を持って、偶像崇拝もしないで、一生懸命に信じることが大事だ。そうしないと神は願いを叶えてくれないかもしれない、そんな風にも思っている。
実はそれはナザレの人達、あるいはイエスを十字架につけたユダヤ人たちが願い求めていた神の姿なのかもしれないと思う。イエスの伝えた神の姿、イエスの中に見える神の姿は全く別のものだと福音書は伝えているようにも思う。
この前のクリスマスの頃から気になっているイエスの言葉がある。マタイによる福音書では昔は山上の垂訓と言われていて、新共同訳では山上の説教となっている言葉だ。同じ内容の話しがルカによる福音書では平野の説教となっている。どっちでもいいけれど。
そこでイエスは、貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである、なんてことを語っている。貧しいことは不幸だと誰もが思っているだろう。というか普通は貧しさの中に不幸しか見つけられない。今まではイエスが言うからそう思うことにしようというような気持ちでいた。
しかしイエスには貧しさの中に幸いが見えているんじゃないかと思うようになった。貧しいから不幸だ不幸だと思い込んでいるけれど、イエスはそうじゃない、決してそうではない、幸せなんだ、そこに幸せがあるじゃないかと言っているような気がしている。そう言われるとちょっとずつ気持ちも変わってくるし世界も違って見えてくるような気がする。
イエスの語る言葉って、思いもよらないことが多いなと思う。平野の説教でも、私たちが不幸だ不幸だと思っていることを、そうじゃない幸いだ幸いだと語っている。何バカなこと言ってんのと思うようなことばかりだと思う。
でもイエスの言葉は私たちの気付いていない大事なことを気付かせようとする、そして私たちの心にポッと火を灯すような、そして私たちの心をじんわりと温め元気にするような、そんな言葉のような気がする。
そのイエスの言葉に神を感じ、イエスに中に神を見た人達が後々イエスを伝え、また福音書をまとめていったのだと思う。
ルカはここに「捕らわれている人に解放を、目に見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの時を告げる」というイザヤの言葉を記している。この言葉は今日実現した、とイエスが語ったと書いているが、それはまさにルカが告げたいことそのものなんだろうなと思う。
イエスは、いろんな思いやしがらみに捕らわれている人を解放しまた自由にし、大事なことが見えず、自分の価値や幸せが見えない人にそれを見せる、そんな救い主、キリストであると告げているのだろう。
イエスの真の姿を見て、イエスの語るそのままの言葉を私たちは聞いているだろうか。イエスは本当に思いもよらないびっくりするようなことを語っているみたいだ。聖書をまるで教科書のようにたた暗記しないといけないもののように読むとしたら勿体ない。もっともっと素直にびっくりしながら聞いていけばいいんだろうと思う。