礼拝メッセージより
ヨハネ
3章の前半に、皇帝ティベリウスの治世の第15年に、神の言葉が荒れ野にいた洗礼者ヨハネに降ったとある。これは紀元26年位にあたるそうだ。
洗礼者のヨハネのことは4つの福音書すべてに書かれている。ルカは皇帝や総督や領主、そして大祭司の名を列記している。
そしてルカは3:4でこれは「預言者イザヤの書に書いてあるとおりである」と言っている。旧約聖書のイザヤ書 にこう書かれている。「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される」(40:3-5)
主のために、救い主のために道を備えるものが現れることをイザヤが告げていた、そしてそれが洗礼者ヨハネである、とルカは言うわけだ。
荒れ野
このイザヤ書はバビロン補囚の時代に書かれた。自分たちの国が他の国に占領され、指導者たちはその国に捕らわれていった、そんな時代に神が語った言葉が、この言葉だった。荒れ野とは文字通り荒れた地で、石がごろごろしているところ。その土地に神は「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と言われる。道のない荒れ地に道を備えよ、と神は言われる。神が捕らえられている者たちをイスラエルに返す道を備える、もうすぐ解放される、自由にされる、もうすぐ帰れる、神がそう言っている。捕らわれているバビロンとイスラエルとの間が、実際にこの荒野だそうだ。そこに道を整えよ、と神は言っているとイザヤは伝えたわけだ。
でも当時は実際には見通しが全く立たない苦しい状況だったそうだ。にもかかわらず神はその真っ暗闇の真ん中に道を備えようとされている。イザヤはそう語って、人々を励ました。
それはまるで先の見えない人生を歩む私たちに語りかける言葉でもあるようだ。私たちの人生も見通しの立たない、しかも曲がりくねった道を歩いているようなものでもある。それはまた大きな石がごろごろして歩きにくく、太陽が容赦なく照りつける、日陰になる木もほとんどない、そんな荒野のようなものだでもある。
しかし、その人生の荒野に神は道を付けようとされる。そんな人生の荒野に神は来てくださる。その時がもうやってきたんだとルカは告げている。私たちを縛りつける全ての者から私たちを解放する時、その時が今やって来た、この約束がすでに起こったという喜びを語っている。ヨハネはイザヤが約束していたキリストを指し示す先駆けであった。その後に救い主が私たちのところへ来たというわけだ。
悔い改め
ヨハネは群衆に「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを作り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と語った。
なんだか恐ろしい話しで、まるで脅迫みたいだなと言う感じがする。この言葉を真剣に聞いたら恐くなって、じゃあどうすればいいんだということになるだろう。
それに対してヨハネはとても具体的なことを答えている。下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやりなさい、食べ物も同じようにしなさい、徴税人は規定以上のものを取り立てるな、兵士はだれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな、自分の給料で満足せよ、ということだった。
下着や食べ物を分けてやりなさいと言われることはわかるけれど、税金を規定以上にとるとか、ゆすりやだましをするなとか、すごく当たり前のことを言ってるような気がする。でもこう言わないといけないほど乱れていたということだったのだろうか。徴税人や兵士というのはそれだけ権力を持っているわけで、権力を持ってしまうと人は自分の欲望に支配されてしまうらしい。
そういう権力の元にある人がなんでこのヨハネの所に来たんだろうか。適当に不正をしておけば金持ちになれただろうに。金持ちになっても満たされないものがあったということなんだろうか。財産をいっぱい持っても、独り占めしても満たされないものが人間にはあるということなんだろうか。確かにそうかなとも思う。
ヨハネは悔い改めにふさわしい実を結べと語った。そうすると持っていない者に分け与え、自らの不正をただすことが悔い改めにふさわしい実を結ぶということになりそうだ。
悔い改めなんていうと自分の本質を改めることのように思うけれど、本来は向きを変えることだそうだ。人間の性質、性格を変えてしまうことではない。結果的にそうなるかもしれないが、大事なのは向きを変えるということ、自分の本来進むべき方向へ向かっていく、そっちの方向に向きを変えるということ、それが悔い改めだ。
私たちの人生は、本来進むべき方向とは全く違う方向に向かって一生懸命に進んでいるようなものかもしれない。そもそも目的地も分からず、兎に角一所懸命に走っているような状態かもしれないと思う。目的地にむかうのが目的ではなくて、一所懸命に走ることが目的になっている、なんてことになってしまっているのが私たちの現状なのかもしれない。
そんな私たちが進みべき方向に向き直ること、それが悔い改めだ。悔い改めとは、私が悪うございました、といじけることでもないし、これからは決して罪は犯しませんと言って、罪のないきれいな人間になると宣言することでもない。罪も持ったまま、駄目なものも抱えたまま、今の自分のまま、進みべき方向へ向きを変える、それが悔い改めだ。
そのためには神の言葉を聞いていかねばならない。どっちを向けばいいのかをしっかりと聞いていかねばならない。
人生のナビ
聖書というのは、車によく付いている、そして最近ではスマホにも入っているナビゲーションみたいなものかもしれないと思う。
昔は知らない所へ行くときには地図を見て自分がどこにいてどっちに向かっていけばいいのか確認しながらじゃないと行けなかった。でも最近はナビがどっちに行けばいいのか助けてくれるようになった。曲がり角をどちらに曲がれば良いか教えてくれるので、自分がどこにいるのかということが分からなくても目的地に着けるようになった。しかもナビの教えてくれる曲がり角を間違えて行き過ぎたとしても、すぐに別のルートを教えてくれる。
また運転しながら見るナビの画面は自分のいる場所の近くの地図だけ、というのもまるで私たちの人生のようだ。私たちの人生に見えるのは次の曲がり角くらいのものだ。人生の最後までのルートは全然見えてない。どっちにいけばいいのかいつもいつも迷いながらというのが私たちの人生だ。しかしナビのように曲がり角を教えてもらえるならば、ナビに任せられるならルート全部を知っておく必要もない、ナビが信頼できるならばこの道で大丈夫かと心配する必要もない。
私たちの人生のナビ、それがイエスだとヨハネは伝えているんだろうと思う。このイエスに聞きつつ進みべき方向を向く、それこそが悔い改めなのだと思う。
私の人生は将来が見えなくて心配ばかりの人生だ。不安と心配に押しつぶされそうになることもしょっちゅうだ。曲がり角を間違えて迷ってばかりの人生だ。本当に曲がっていいんだろうか、曲がったけれど正しかったんだろうか、なんて思うような人生だ。
でもイエスがいるじゃないか、聖書はそう告げているようだ。ナビは宇宙の人工衛星から送ってくる信号を受けている。しかしイエスは高い高いところからではなくいつもそばにいて、隣りにいて語りかけているらしい。道を見失っても迷っても、どこまでも一緒に付いてきてくれている、たとえ間違ってもそこから新しいルートを教えてくれる、そんな人生のナビのような気がしている。
道を踏み外さないようにイエスの声を聞きなさい、踏み外した時にも聞きなさい、踏み外した時こそしっかり聞きなさい、そう言っているような気がしている。
この洗礼者ヨハネは自分の持っているものを持ってないものに分けてあげなさいと言った。そしてイエスも自分を愛するように隣人を愛しなさいと言っている。自分のことだけではなく周りの人とのそんな関係を大事にすること、それこそが私たちの進みべき道だと言われているようだ。
この年もそんなイエスの言葉をしっかりと聞いていきたいと思う。