礼拝メッセージより
ヘロデ王
当時ユダヤを支配していた王。権力者に取り入るのがうまく、また自分の権力を守るためにもアメとムチを使って民を懐柔するのもうまかったようだ。そして自分に刃向かう者たちや自分の地位を脅かす者は処刑するという残虐な面も持ち合わせていたらしい。
彼は王座に着くとまもなく、ユダヤ人の議会であるサンヘドリンの議員たちを殺し、そのあと、300人の議会関係の役人を殺した。また、妻マリアムネとその母アレキサンドラ、長男のアンティパテルとほかの二人の息子、アレキサンデルとアリソトブロスを殺害した。また自分が死ぬ瞬間に、エルサレムの著名な人たちを殺すように命令した。
そういう風にヘロデ王は自分にとって都合の悪くなりそうな人間を片っ端から殺していったようだ。
と言っても、ただヘロデ王が趣味として色んな人を殺していたわけではなく、家族や親族の中にまで様々な権力争いがあって、各々が自分の立場を有利にするために、陰に日向に誹謗中傷やでまかせが飛び交っていたために、いろんなことに疑心暗鬼になってしまい、結局大勢の人達を殺してしまうことになったようだ。自分の権力が脅かされるかもしれないという恐怖に常に怯えて生きていたのかもしれない。
逃避行
マタイ2章を見ると、占星術の学者たちは、そんなヘロデの所へやってきて、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」といった。
ユダヤ人の王が生まれたと聞かされたらヘロデはそりゃびっくりするだろうと思う。ヘロデ王は不安を抱いたと書かれているが、ヘロデ王の心の中は不安と恐れが渦巻くようになったとしても不思議じゃないだろうなと思う。
そこでヘロデ王は王として生まれたという者をも殺害しようと計画する。祭司長や律法学者達に、メシアはどこに生まれるかと聞いて、それがベツレヘムだと分かると、それを学者達に教えて、誰かということが分かったら自分も拝みにいきたいから自分に教えてくれと頼む。また星が現れた時期についての情報も学者達から仕入れておいた。なかなか頭がいいし、用意周到といった感じ。
ところが学者達はベツレヘムでイエスに会うけれども、夢で神のみ告げを受けてヘロデに会わないで帰っていったという。
またイエスの父とされたヨセフにも、主の天使が夢で現れて、ヘロデが狙っているのでエジプトへ逃げるようにと言われてエジプトへ逃げる。
学者たちにだまされたと知ったヘロデは、学者達から星が現れた時期を聞いていたことから、ベツレヘム一帯の二歳以下の男の子を全部殺させたが、イエスはエジプトへ逃げたので助かったという話しだ。
成就
この箇所でマタイは例によって、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった、という言い方を繰り返している。
15節の「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」というのは旧約聖書のホセア書11章1節「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。」という言葉の引用だ。ホセア書ではエジプトからイスラエルの民を呼び出してわが子としたと書かれていて、出エジプトのことを語っていてわが子とはイスラエルの民のことだが、マタイはわが子をイエスということにしている。
18節の「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことでなき、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。」というのは旧約聖書のエレミヤ書31章15節「主はおう言われる。ラマで声が聞こえる 苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む 息子たちはもういないのだから。」という言葉の引用だ。これは北イスラエル王国が滅ぼされた時、イスラエルの人達がアッシリアに強制移住させられた際にラマを通過して、その時のことを伝えているものだ。ラケルというのはヤコブの妻の独りで、彼女の産んだ子供達の子孫が北イスラエル王国の民となっていた。その民が移住させられることを息子たちはいないと嘆いているということだ。
もうひとつ23節には「彼はナザレの人と呼ばれる」というのは旧約聖書にはそのような言葉はないようで、どこから引用したのか不明だそうだ。ヘロデの息子アルケラオがユダヤ地方を支配していたのでヨセフはガリラヤ地方のナザレに住んだとあるけれど、ガリラヤ地方はヘロデの別の息子であるヘロデ・アンティパスが支配していたそうで、実際にはガリラヤだから安全とも言えなかったようだ。
マタイは預言者たちを通して言われていたことが実現するためであったと言うけれど、その根拠はあまり説得力がないようだ。
出エジプト
夢によるお告げでイエスと両親はエジプトへ行くことになり、夢によってヘロデの死を知らされイスラエルに帰ることになり、夢によってガリラヤのナザレに住むことになったと書かれている。
似たような話が旧約聖書に出てくる。ヤコブの息子であるヨセフが夢を見ることで他の異母兄弟から嫌われてエジプトへ行くことになった。しかしヨセフがエジプトへ行ったことがヤコブの家族の救いへと繋がっていくことになった。そしてエジプトから帰還することがイスラエル民族の救いとなっていった。エジプトではヘブライ人の人数が増えることで、脅威に感じたファラオが生まれてくるヘブライ人の男の子を殺害するようにという命令を出したこともあったが、生まれたばかりのモーセは助けられて、やがてユダヤ人たちを率いてエジプトを脱出することになる。
マタイはモーセのことを意識しているというか、モーセになぞらえてモーセがユダヤ人たちを救ったように、イエスはユダヤ人だけではなく異邦人をも救う救い主であるということをここで告げているのだと思う。
ついでにそもそもユダヤ人がエジプトへ移住するきっかけとなった人物の名がヨセフというのもただの偶然なんだろうかと思ってしまう。
マタイはイエスが生まれるときから神の特別の使命を帯びていたこと、神の特別な守りがあって危機からも守られてきた、預言者が約束していた通りに生まれた、ということを通して、要するにイエス救い主であること、ユダヤ人だけではなく人類全てのキリストであるということを伝えようとしているということだろうと思う。だからキリストであるこのイエスのことを知って欲しい、イエスの言葉を聞いて欲しい、という思いでその前提として福音書の最初にこの誕生物語を載せているのだと思う。
愛
歴史的にこのようなことがあったかどうかは疑わしいと思うけれど、でもイエスが生まれた場所、生きた場所はマタイが言うような場所だったのだろうと思う。
イエスは神の子として、救い主として生まれた。しかしイエスは神聖な清らかな場所に生まれて来たわけではなかった。圧倒的な力を持って、周りの者たちを牛耳るようなこともしなかった。高いところにいて、上からみんなを指図するようなこともしなかった。
イエスは誰にも見向きされないような田舎で生まれた。世の中のほとんどの者に気付かれずに生まれた。
力を持つ者たちが権力を争いあい、そのために苦しめられ迷惑を被る、そして命を狙われる、そんな所に生まれてきた。
人間の憎悪と恐れと不安が渦巻くところに生まれた。そのために人を傷つけ、殺してしまうような、そんな人間のどろどろしたものがうごめくところに生まれた。
神を信じたらそんなどろどろした世界から清らかな世界に行ける、というわけではない。神を信じたら汚いものが全部なくなって綺麗な思いだけになれたらいいと思う。けれどどうもそんなに簡単に綺麗になんてなれそうにもない。神を信じたら憎しみも恨みもなくなる、なんてことはない。
しかしだからこそイエスは人間のそんな憎悪渦巻く世界のただ中に生まれてきたんだろうと思う。不安にさいなまれて人を傷つけてしまうような、そんな者たちの中にイエスは生まれてきた。力を持たないで、大きな力に揺れ動かされて生きている、理不尽な力によって悲しい思いをさせられている、そんな者たちの中にイエスは生まれてきた。
そんな憎悪渦巻く世界のなかで、どう生きるのか。自分も憎悪を持った中でどう生きればいいのか。それをイエスは伝えてくれた。
イエスは愛することだと言った。私たちは力があれば、力を持てばどうにかなる、力を持たねばと思う。しかしイエスは愛することだと言った。そのことを私たちに伝えるために、憎しみや悲しみを持つ私たちに伝えるために、憎しみと悲しみの世界の真ん中にイエスは生まれてきたのではないだろうか。