礼拝メッセージより
不安
イエスはヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムで生まれたとマタイは伝えている。ヘロデ大王はたいへんな野心家だったそうだ。ヘロデ家というのは、もともとイドマヤ人と言って、エドム、つまりヤコブの兄弟のエサウの子孫だった。ユダヤ人から見ると遠い親戚ではあってもイスラエルの12部族ではない異邦人だった。
しかしヘロデの父がたいへんな野心を持った人で、ユダヤ教に改宗し、ユダヤの王家の血統の奥さんをもらうなどして王家に近づいていた。また当時その地方一帯を支配していたローマ帝国の皇帝に取り入るというようなこともして、ユダヤの中での地位を固めていったそうだ。そして息子のヘロデが今日の聖書に出てくるヘロデ王と呼ばれる人だ。彼はローマの後押しでユダヤのハスモン王家を倒して王になった。
このヘロデは非凡な才能もあったようで、各地に大きな建築物を建てて、エルサレム神殿の大規模な修復拡大もしたそうだ。しかし自分が王位を奪ったハスモン家から迎えた妻を殺し、息子たちも王位を狙っていると疑って殺してしまったそうだ。そんな残酷な人間でもあったそうだ。
今日の聖書はそのヘロデ王の所に、東の国の占星術の学者が尋ねてきたという話しだ。
占星術の学者という言葉は原文ではマゴスという言葉だそうだ。このマゴスは今のイランにあたるペルシャの宗教であったゾロアスター教の祭司階級に属し、天文学に通じている星占いや夢解きの専門家のことだそうだ。当時は星の動きから世の中の動きを知るというような考え方が一般的で、世の中の流れを読むという大切な役目を持った王の参謀、政府高官というような人たちだったそうだ。
その学者が星を見てユダヤ人の王の誕生を知り、先ずはヘロデのところへやってきて、その後星に導かれて幼子であるイエスを探し当て、宝物を献げ、別の道を通って帰って言った、というのが今日の話しだ。
星
ここでマタイはイエスがベツレヘムで生まれたと書かれている。ベツレヘムはエルサレムの南7kmにあるそうだ。エルサレムからも日帰りできそうな距離だ。ベツレヘムとはパンの家という意味で、エルサレムの食料庫のような町だったのかもしれないそうだ。
ベツレヘムはダビデが生まれた町ということで、かつてのダビデのような偉大な王として生まれるであろうメシアは正当なダビデ家の家系として、ベツレヘムに生まれると言い伝えられていたそうだ。
また聖書がまとめられた当時は、地上での特別な出来事を星が知らせるというか、神が天から星を動かして知らせているというような宇宙観を持っていたわけで、いろいろな特別な出来事、例えば聖書で言うとアブラハムの誕生もイサクの誕生もモーセの誕生も星が知らせたという言い伝えもあるそうだ。
紀元前6年〜7年頃に木星と土星が重なり合って異様な輝きを示していたそうで、占星術の学者もその星を見たのではないかという説もあるそうだ。けれどこの話しは歴史的にそうだったとかいうことではなく、生まれてきた幼子が神から遣わされたキリストである、救い主であるということをマタイは伝えようとしているのだと思う。神が星を使って学者たちを導いたという言い方を通して、イエスの誕生は実は神の計画によって引き起こされた特別な出来事であったということを伝えているのだろう。
現代の感覚で言うと星が導くというのはどういうことなのか、さっぱり分からない。夜の星座の中を惑星は不思議な動きをしているように見えるけれども、現代ではそれは地球も惑星の一つとして他の惑星と同じように太陽の周りを回っているからだというが分かっている。他の輝く星は何光年も、何万光年も、何億光年も彼方にあることを知っている。そんな星が学者たちにユダヤ人の王の誕生を知らせるということがあり得るとはにわかには信じられない。その星が先だってイエスがベツレヘムのどの家にいるのか教えてくれるなんてことは有り得ないと思う。
当時の人は、こんな物語を通して、天の上からの神の導きがあった、イエス誕生は神の計画通りのことだということを信じたのかもしれない。私たちは文字通りそんなことが起こったと信じないといけないということではないけれども、しかしイエスの誕生が神の計画であり、神の使命を帯びて生まれてきた、つまりイエスが神の意志を小さく弱い人間に伝えるために、世の全ての人の救い主としてキリストとして生まれてきたということを聴き取っていくことが大事なのだと思う。
ベツレヘムで生まれたということも、かねて旧約時代から待望されていた正当なメシアであるということを伝えようとしていることであると思う。またその後命を狙われてエジプトへ逃げたとなっているが、それはエジプトへ行ったかつてのヨセフやモーセが民を救ったように、イエスは民を救う救い主なのだということを伝えているのだろう。
異邦人
そして今日の話しの中で面白いのは、ユダヤ人の王が生まれたと聞いて心配になったのはヘロデ王だけではなくエルサレムの人達もそうだったと言われていることだ。ユダヤ人たちはイエスの誕生を喜ばず、それどころかヘロデと同じように心配になっている。一方異邦人である占星術の学者たちはイエスを捜し当てて喜び贈り物を献げたと書いてある。
自分達こそ神に選ばれ神に愛されていると自慢し、異邦人や病人や羊飼いたちのことを律法を守れない罪人だといい蔑んでいた、そして旧約聖書のこともよく知っていた、そんなユダヤ人たちよりも、異邦人である占星術の学者たちの方がイエスを探し当てて喜んだ、そして高価な贈り物を献げたとマタイは書いている。
これはユダヤ教に対する皮肉も込められているような気にしないでもないけれど、マタイはここで、キリストはユダヤ人を救うためだけに来るのではなく、異邦人をも救う、全人類を救うそんな救い主であるということを告げているのだと思う。
そしてキリスト誕生の知らせはユダヤ人ではなく先ず異邦人に知らされたというのも面白い。ルカによる福音書ではその知らせは羊飼いに知らされたと書いてある。どちらもユダヤ人が律法を守れない罪人だとして差別していた人達だ。どちらの福音書もキリスト誕生の知らせは、真っ先に差別され除け者にされている者に届いたと書いてある。そしてこれは差別され除け者にされた者たちと共に生きいたイエスの生き様を現しているのだと思う。
本物のクリスマス?
実際にはイエスが誕生した時からキリストが生まれたと知った者はいなかっただろうと思う。実際にはイエスの誕生したときに特別なことはなかったんじゃないかと思う。恐らく世間の誰にも気づかれずに生まれてきたんだろうと思う。
福音書をまとめたマタイも、誕生の時に特別なことがあったと聞いたからイエスがキリストであると信じたというのではなく、イエスの生き様や振る舞いを知り、イエスの語った言葉を聞き、そこに感動し慰められ癒されたからこそ、イエスが救い主である、キリストであると信じたのだと思う。そしてそんなイエスの生き様を伝えるために福音書をまとめたのだろうと思う。
福音書を読む人達もそのイエスの言葉に出会ってほしい、そして自分がそうであったように感動し、励まされ、癒されてほしい、そう思って福音書をまとめたのだと思う。
特にマタイはユダヤ人に向けてこの福音書をまとめているようで旧約聖書を引用して、あの言葉はここで成就したという言い方を度々している。
しかしイエスの言葉は、ユダヤ人こそが神に選ばれ愛されているというような、そして決められた儀式を落ち度なく守ることこそが神に喜ばれるというような、かつて聞かされてきたようなこととは全く違うものだ、それとは正反対のもの、つまりユダヤ人が差別し除け者にしていた弱く小さい者を神はしっかり見つめているということを教えてくれるものだとマタイはここで言おうとしているようだ。
私たちもイエスの言葉をしっかり聞くことでイエスが私たちの救い主となるのだと思う。律法の中でどの掟が最も重要でしょうかと聞かれた時にイエスは、『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、あなたの神である主を愛しなさい』というのと、『隣人を自分のように愛しなさい』ということだった。
マイケル・ジャクソンが「でもボクはイエスさまが言われたように、人を助け、 愛することを決してやめたりしない。」と言ったそうだけれど、隣人を愛しなさいと言うイエスの言葉をしっかりと聞いていくこと、それに従うこと、それこそが大事なことなのだと思う。
教会のクリスマスこそ本物だ、あいつらのクリスマスは偽物だ、なんて思っているとしたら、そのあいつらにこそキリストの誕生の知らせが届いているのかもしれない。キリストの言葉をしっかりと聞いているかどうか、そしてマイケル・ジャクソンのように、でもイエスが言われたように人を助け愛することをやめないと決意しているかどうか、イエスに従って生きていくと決意しているかどうか、そのことを自分に問いかけていく、それこそがクリスマスなのではないかと思う。イエスに出会いイエスに従うところにこそ喜びがある、そのこともマタイは伝えている。