礼拝メッセージより
系図
今日はマタイによる福音書の最初の系図である。新約聖書の一番最初がこの訳の分からない系図というのはいかがなものかと思う。初めて聖書を読んでこの系図で挫折する人も多い。ユダヤ人や旧約聖書に詳しい人にとってはいろいろイメージ出来るだろうけれど、そうじゃない人にとっては非常に大きな壁のようなものだと思う。
マタイによる福音書はユダヤ人向けに書かれているのでいきなりこんな系図を書いたのだろう。ユダヤは男系の社会で、この系図も基本的に男の系図だけれど、その中にイエスの母となったマリアを加えると5人の女性が含まれている。
タマル
創世記38章に登場する。ヤコブの息子であるユダはカナン人のシュアという人の娘と結婚して3人の息子をもうけた。そして長男エルの嫁となったのがタマルだったが、子供をもうける前に夫のエルが死んでしまった。そういう時はユダヤでは下の兄弟が兄嫁と結婚して兄のために子孫を残すというしきたりがあった。そこで次男のオナンと結婚するが、オナンは子供ができても自分の子孫ということにならないということで、タマルと関係はもっても子種を地面に流したそうだ。それが神の意志に反することだったと聖書には書いているが次男のオナンも子供をもうけずに死んでしまう。今度は三男のシェラが兄のためにタマルと結婚して兄のために子孫を残すことになるけれど、その時シェラはまだ子供だったようで、父のユダはシェラが成人するまでということで嫁のタマルを実家に返した。しかしユダはタマルの所為で上の息子二人が死んだと思っていたようで、三男のシェラが成人してもタマルを呼び戻さなかった。時が経ち、妻が死に喪に服した後に、ユダはカナンの豊穣を祝う祭りに出掛けたらしい。カナン地方では神殿娼婦と関係を持つことで女神と一つになると考えられていたそうだ。自分を呼び戻す気がないと知ったタマルは多分仕返しをしようとしてその神殿娼婦の格好をして祭りに出掛けて義理の父であるユダと関係を持った。その時に妊娠して生まれたのがペレツとゼラという双子だった。
ラハブ
ヨシュア記2章に登場する。エジプトを脱出したユダヤ人たちがエリコを攻略する際に偵察隊としてエリコに斥候を送ったが、その斥候をかくまったのがラハブという娼婦だった。ユダヤ人はエリコの住人であり異邦人であるラハブに助けられてエリコを陥落させることができた。
ルツ
ルツ記に詳しく書かれている。ルツもモアブの人で異邦人だった。旧約聖書の申命記23章4節には「アンモン人とモアブ人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても、決して主の会衆に加わることはできない」と書かれている。ルツはユダヤ人と結婚したが、夫とは子どもがないままに死別する。けれども未亡人になってからも姑であるナオミといっしょにベツレヘムにやってくて世話をし続け、ボアズにみそめられ結婚した。
ウリヤの妻
サムエル記下11章に登場する。ダビデが王宮の屋上から、水浴びをするウリヤの妻バト・シェバを見て、呼び寄せて関係を持って妊娠させてしまう。そこで戦争に行っていた夫のウリヤをエルサレムに呼び戻してバト・シェバの元へ返して関係を持たせようとする。そうしたら自分とのことを誤魔化せると思ったらし。ところがウリヤは他の者が戦っている時にそんなことはできないと言って帰らなかったので、ダビデはウリヤを最前線に送り出すように命令して戦死させて、バト・シェバを自分の妻とした。そのバト・シェバがソロモンを産むこととなった。マタイによる福音書ではご丁寧にウリヤの妻と書いていて、ダビデが寝取ったということを明らかにしているようだ。
正しい系図?
しかしこの系図にどれほどの意味があるのだろうか。
17節では「アブラハムからダビデまで14代、ダビデからバビロンへの移住まで14代、バビロンへ移されてからキリストまで14代である」とある。そうすると全部で42代ということになりそうだけど、アブラハムからイエスまでで41代になる。アブラハムからダビデまでは確かに14代になっている。そしてバビロンで生まれたエコンヤからイエスまでも14代になっているが、真ん中のダビデからバビロンへ移住したヨシヤまではダビデから数えないと14代にならない。
また歴代誌上3章ダビデの子孫の名前が載っているがそれとも合わないそうだ。3章10節以下には、「ソロモンの子孫は子がレハブアム、孫がアビヤ、更にアサ、ヨシャファト、ヨラム、アハズヤ、ヨアシュ、アマツヤ、アザルヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ、マナセ、アモン、ヨシヤと続く」となっている。
新約聖書はギリシャ語で書かれていて、当時は旧約聖書もヘブライ語からギリシャ語に訳したものを読んでいたそうだ。そのギリシャ語の旧約聖書ではヨラムの次の「アハズヤ」がマタイによる福音書の「ウジヤ」となっていて、その3代下の「アザルヤ」も「ウジヤ」となっているそうだ。どうやらヨラムの次のウジヤと3代下のウジヤをごっちゃにしてその間を飛ばしてしまったらしい。
というふうによくよく見ると14代というのもあまり当てにならないらしい。ダビデの名前の文字を該当する数に置き換えて、それを足すと14になるそうで、それで14にこだわったのかもしれないという説もあるらしい。聖書の中にはそんな数字遊びみたいなことも含まれていることもよくあるみたいだから、何かしら意図的に14代にしたような気もするけれど、その意図はあまりよく分からない。
そして福音書ではマリアは聖霊によって身籠もったということになっていて、そうするとヨセフの血は継いでいないことになる。血のつながりを大事にするということならば、ヨセフの系図には何の意味もないんじゃないかという気になる。ヨセフではなくマリアの方の系図を載せるべきなんじゃないかという気もする。
真ん中に
マタイがわざわざ大層な系図を、しかも初っ端に載せたのはどうしてなんだろうか。実はそんな血のつながりとかいうようなことよりも、イエスは旧約聖書時代から綿々と続いてきたユダヤ人の歴史を全部背負って生まれてきたということを言いたいんじゃないかなという気がしている。系図の中の女性の多くはユダヤ人ではなくて異邦人のようだ。ということはイエスはユダヤ人だけではなく全人類を背負って生まれてきた、全人類の救い主として生まれたきた、ということを言いたいのではないかなと思う。
キリストが祝福の基であるアブラハムの家系に、そして偉大なダビデ王の家系に生まれるという、選ばれた民であると思っているユダヤ人にとってはとても聞き心地のいい話しという形になっているのかもしれない。けれど敢えて異邦人の女性の名前を載せているということはユダヤ人ということにこだわりを持つこと、自分達だけが特別に神に愛されていると思っているユダヤ人というかユダヤ教の人々に対する批判でもあるのかもしれないと思う。
しかもタマルやウリヤの妻のことを敢えて書いてあるということは、罪や穢れや欲望を持つ、そんな誰にも見せられない知られたくないような恥ずかしい思いを持つ、そんな本性を持つ人間のただ中にイエスが生まれてきたということを伝えたいんじゃないかと思う。そんなどろどろした思いを引き継ぎながら生まれ、迷いながら苦しみながら生きている、そんな人間のためにイエスは生まれてきたんだということを伝えたいのではないかなと思う。
誰にも知られたくない恥ずかしい思いを持ち、取り返しのつかない失敗をし、どうにもならないことをいつまでも後悔してしまう、そしてどろどろした欲望と心配と不安とが渦巻く、そんな苦しい思いが積み重なっている私たちの心の真ん中にイエスは来てくれた、そしてイエスはこの私たちの苦しみも悲しみもみんなひっくるめて受け止めてくれる、分かってくれるそんなキリストだ、救い主だ、マタイはそのことを私たちにも伝えてくれているのだと思う。
このイエスを心の真ん中に迎え入れること、それこそがクリスマスだと思う。