礼拝メッセージより
ふるさと
今日の聖書では、11人の弟子たちはガリラヤの山でイエスと会ったとある。ガリラヤはイエスにとってもそうであるが、弟子たちにとっても故郷であった。その故郷で弟子たちは復活のイエスと出会った、というのが今日の聖書だ。
故郷という有名な歌がある。
1.兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川
夢は今も廻りて 忘れがたき故郷
2.いかにいます父母(ちちはは) 恙無しや友がき
雨に風につけても 思い出(いづ)る故郷
3.志しを果たして いつの日か帰らん
山は蒼き故郷 水は清き故郷
これを日本の国歌にすればいいのにと思ってる。
志を果たして故郷へ帰れるというのは幸せなことだと思う。
もう一つ歌にもなってる室生犀星の故郷という詩がある。
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて 異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや
(現代語訳)
ふるさとは遠くにあって思うもの、そして悲しく歌うもの
たとえ落ちぶれて、異郷の地で乞食になったとしても
帰るところでは無いだろう
都の夕暮れにひとりふるさとを思って涙ぐむ
その心をもって遠い都に帰るとしよう
弟子たちと会う
弟子たちはイエスの呼び掛けに答えてイエスに従っていった。仕事を捨ててついていったと書いてある。弟子たちにとってそれまでの人生がどういうものだったのかはよくは分からない。十分満足できる人生を送ってきたんだろうか。そうではなかったのではないかと思う。こんな田舎で燻っていたくはない、あるいはこんなつまらない人生はもういやだというような、そして別の人生を生きたいという願いを持っていたんじゃないのか、あるいはどこかで一旗揚げたいというような思いを持っていて、だからすぐにイエスに従っていったのではないかという気がしている。だとしてもイエスに従っていくということは、それまでの人生に区切りをつけて新しい世界に入っていくと言うことで、夢と希望と同時にそれなりの覚悟と不安を持っての決断だったに違いないと思う。
そしてイエスについていくに従って、自分たちの師匠はどうやらただ者ではないと感じてきてたんじゃないかなと思う。いつかは誰もが賞賛する立派な先生の弟子として、偉大な指導者の弟子としていつかは故郷に帰ることもあるだろうという気持ちも持っていたんじゃないかと想像する。
ところがイエスは十字架につけられて処刑されてしまう。弟子たちにとってそれはきっと夢にも思わない出来事だったのだろう。
彼らはイエスが捕まるとみんな逃げてしまった。中途半端についていっていざとなると逃げ出した。どこまでもついていきます、死んでもついていきます、なんてことも言いながら、最後にはそんな人は知らないと言った弟子もいた。潔くイエスに従っていったのに、やばくなると見捨てて逃げてしまった、弟子たちは誰もがそんな挫折感、人生の敗北感を味わっていただろうと思う。
再出発
復活の朝、イエスは墓にやってきた婦人達に、弟子たちにガリラヤに行くように、そこで会うことになると言いなさい、と告げている。弟子たちにとって故郷であるガリラヤに帰ることはかなりつらいことだのだろう。偉くなって錦を飾るどころか、「イエスなんていう変な奴についていくからこんなことになるんだ」と言われかねない状況になってしまった。
しかしそのふるさとのガリラヤで弟子たちは復活のイエスと再会したと書かれている。復活がどういうものなのか、死んだ後元の体で生き返ったのか、あるいは幻のようなものだったのか、はっきりとは分からない。この福音書でもおぼろげにしか書かれていないような気がする。どういう出会いだったのだろうか。
ガリラヤは弟子たちにとっての故郷であり、またイエスと出合い、イエスと共に生きた場所だった。ガリラヤに帰ることで、弟子たちは、かつてのイエスの姿、イエスの声を思い出したに違いないと思う。ここであんなことがあった、ここではこんなことを語っていた、というように、そこで改めてイエスの姿を見直し、イエスの声を聞き直したのではないかと思う。そして弟子たちはかつて聞いたイエスの言葉によって元気になってきたのではないかと思う。復活のイエスに出会うとはそういうことだったのではないかと思う。
ぼろぼろ
弟子たちはふるさとのガリラヤでかつてイエスの姿を見つめ直し、イエスの言葉を聞き直したのだろう。そしてそこから弟子たちは再び立ち上がっていった。
師匠を見捨てて逃げてしまうという大きな挫折を経験した弟子たちだった。師匠も十字架で処刑されてしまっていた。彼らの心は傷ついてぼろぼろになっていたと思う。
弟子たちは故郷で、イエスと出会うと同時に、そこでありのままの自分を見つめ直し、自分の弱さや駄目さを見つめ直したんだろうと思う。
ぼろぼろに傷ついた心で、もう一度イエスの言葉を聞き直したんだろうと思う。ぼろぼろになっていたからこそイエスの言葉が彼らの心に染みこんで来たんじゃないか、打ちのめされて傷ついていたからこそ、イエスの言葉の意味が初めて分かったんじゃないかという気がする。そこから弟子たちはもう一度立ち上がる力を与えられたんだと思う。
私たちの人生も、志を果たして、いつの日に帰らん、と思いつつなかなかそうも行かないような、それどころか挫折と失敗ばかり、嘆いてばかりの人生、そんなぼろぼろの人生かもしれない。しかしそんなぼろぼろの人生にこそイエスの言葉は染みこんで来るんだろうと思う。
そんなぼろぼろのあなたと世の終わりまで共にいる、ぼろぼろのあなたといつも共にいる、イエスはそう語りかけてくれている。