礼拝メッセージより
羨望の眼差し
バビロン捕囚から戻ってはきたものの、エルサレムの町は荒廃しており神殿も破壊されていた。その神殿の再建に取り組もうとしたけれども、妨害されたり飢饉があったりでちっとも進まなかったようだ。
思うようにことが進まないという時は何よりも精神的にしんどくなる。計算通りというか、予想通りにことが進めばそんなことはないけれど、不具合が起こって計画通りにいかなくなると途端にしんどくなる。そして余りに進まなかったり、ストップしたりして、全然目処が立たなくなってしまったりすると心が折れてしまうなんてこともある。
神殿の再建に向けてイスラエルの人達もどうやらそんな気持ちだったんじゃないかと思う。イザヤもここにきて苦しい思いになっているいるようだ。
かつての恵み
イザヤはかつての神の恵みを思い起こしている。主がイスラエル民族を自分の民とし、自分の子供とし、救い主となってきてくれた。イスラエルの苦難を自分の苦難として、その苦しみから助け出してくれた。モーセに力を与えて海を二つに分けて、その中を通らせてくれた。そうやってイスラエルを約束の地へ導いてくれた。
14節まではそんな神の偉大な導きを回想している。インターネットを見ているとこの14節までで区切って、そこまでの説教がいくつかあって、どうしてそこまでで区切るのかなと思っていた。14節までならば神は偉大な力で守ってくれるのだ、という良い話しというか、礼拝の説教にとってはちょうどいい話しになりそうだと思う。神の導きを思い起こしましょう、忘れないようにしましょう、という良い話しで終われそうな気がする。
でも今日の聖書は15節以下も続いていて、核心は15節以下なんだろうと思う。
15節以下でイザヤは神に向かって叫んでいるようだ。天からよく見て下さい、あなたの熱情と力強いみ業、たぎる思いを憐れみはどこにあるんですか、私には見えません。あなたは私たちの父じゃないですか、贖い主という名前じゃないですか。モーセの時代に偉大な力で助け出してくれたのに、どうして今は助けてくれないのですか、あなたから与えられた地に住めたのも僅かな期間にすぎません、どうして聖なる民である私たちを迷わせるのですか、どうしてずっとほったらかしにするんですか。どうか天を裂いて降りてきて下さい、どうか助けてください。
イザヤはそんな思いを神にぶつけているようだ。
絶望
天を裂いて降りてきて下さいというのは、言外にはまたモーセの時のように偉大な奇跡を起こしてくれと言う気持ちもあるのだろうと思うけれど、降ってきてくれとしか言っていないということは、神に何かことを起こしてくれるんではないかという期待を持つ余裕もなく、そんなことよりも、ただただ神に自分のそばに来て欲しい、神が自分のそばにいて欲しいということを願っているような気もしている。
目の前の現実の厳しさと、そしてそれに対して挫けてしまいそうになっている苦しい思いを抱えて、自分ひとりで立っていることさえも苦しいような状況だったのかもしれない、自分ひとりだけだとどうなるのか分からない、夢も希望も何もかもなくなってしまって、崩れ落ちてしまいそうな、そんな思いだったのかもしれないと思う。
だから、一人にしないで欲しい、独りぼっちにしないで欲しい、自分のそばにいてほしい、そんな思いでイザヤはこう祈ったのかもしれないと思った。
祈り
新約聖書に「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る」(コリントの信徒への手紙一13:13)という言葉ある、という話しを先週もしたけれど、私たちが最後まで出来ることは祈ることなんじゃないかと思う。よくよく考えると祈ることができるというのは本当に幸せなことだと思う。どこにいてもどんな状況でも祈りことができる。
この前ラジオに冤罪で逮捕された元役人の人が出ていた。突然逮捕されて検察も犯人だと決めてかかって百日余りだったかな拘留されていたそうだ。自分がやってなくてもやったと認めたらとりあえず釈放されるとかいう訳の分からないことになっているそうで、認めろ認めろと尋問が続いたけれどずっとやってないと言いつづけて、たまたま無実の証拠も見つかった無罪になったなんて話しをしていた。
そういうのを聞きながら、もし自分がそうなったらどうなるんだろうかなんて思っていた。そんなに頑張れないような気がするけれど、そう思いつつそんな状況になったら祈るしかないだろうなと思っていた。僕は祈るってどういうことなのかよく分かってないし、人前で祈るなんて大嫌いだけれど、こんな自分でもそんな状況になったら祈るしかないんだろうなと思うし、そんな時でも祈る相手がいること、祈れるってことはありがたく嬉しいことだなと思うし、祈りってのは最強なんじゃないかという気がしている。
祈ったら奇跡的に助けられる、と言えたら良いんだけれど現実にはそうなるとは限らないみたいだし、そうならなうことがほとんどのような気がする。
でもどんな祈りでも神に届いているのだと思う。
聖書教育に、『「天を裂いて降って」欲しいという、主の臨在への求めは、「インマヌエル」である救い主イエスの誕生を想起します。』と書いてあった。
何でもかんでもすぐイエスをひっぱり出すんじゃないよと思うことが多いんだけれど、だんだんとそうだなと思えてきた。
イザヤは降ってきてくれと祈ったけれど、もうすでに降ってきている、もうそばにいてくれているのだと思う。だからこそ私たちの祈りは、声に出そうが出すまいが全部届いているのだと思う。
勿論祈ったら奇跡が起こるとか、願いがみんな叶うなんてこともないだろう。祈っても自分の周りは何も変わらないかもしれない。でも祈る事で自分が一人ぼっちじゃないことを知ることができる。神が、イエスがいつもそばにいてくれていることを知ることができる。そこから少しずつ元気が出てくる、少しずつ力が湧いてくる。そうやって少しずつ自分が変わってくるに違いないと思う。そして自分が変わることで世界も違って見えてくるだろうと思う。それは世界を変えることに等しいことだ。
神は私たちのそばにいて、あるいは私たちの心の中にいてくれている。そして私たちの祈りを、切なる願いを、そして声にならない呻きを聞いてくれている。私たちはそうやって支えられている。