礼拝メッセージより
ふるさと
イザヤ書56章から66章までは、第3イザヤと呼ばれ、イスラエルの民が帰還した後のイスラエルの地で活動した何人かの預言者の言葉を集めたものとされているそうだ。今日はその第3イザヤの最初の言葉ということになる。
補囚から解放されイスラエルへ帰還したユダヤ人たちであったが、50年ぶりに帰る故郷はかつてのイスラエルとはだいぶ違っていたようだ。といっても初めてイスラエルの地を踏む人達の方が多かっただろうけれど、そこはエルサレムの城壁も神殿も壊されていた。そんな中で、それぞれの家庭も、そして社会全体も、あらゆるものを作り直さないといけないような状況だったのだろうと思う。それは大変な、そして疲れることでもあったに違いないと思う。
エルサレムへ帰還した人達は神殿の再建にも取りかかったが、飢饉があったり、サマリア人の妨害があったりして工事も中断したりなどして、完成したのは帰還後20年後だった。経済状態もよくならず、ユダヤ人たちの中で争いが起き、民族主義者たちは異邦人を排斥することを訴えていた。
そんな状況の中で活動した預言者たちの言葉が56章からの第3イザヤということのようだ。
変革
先ず言われていることは、1節にある「正義を守り、恵みの業を行え」ということだ。また2節には、安息日を守りそれを汚さない、また悪事に手を付けないように自戒するということだ。それはずっと以前から言われていたことだろう。
しかし3節にはすごいことが書いてある。「主のもとに集まって来た異邦人は言うな/主はご自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな/観よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。」
異邦人とはユダヤ民族でない人たち、そしてご自分の民とはユダヤ民族のこと。宦官とは去勢して役人となっている人達のことだ。
ユダヤ人が大切にしている律法の中の申命記23:2-4には、「「睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることはできない。混血の人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても主の会衆に加わることはできない。アンモン人とモアブ人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても、決して主の会衆に加わることはできない」とある。つまり宦官も異邦人も主の会衆に加わることができないと書かれている。
同じ時期に神殿の再建を指導した律法学者のエズラや総督のネヘミヤたちは、外国人と結婚していた者たちを離婚させようとしたり、神の民から追放するように命じていたそうだ。
現代でも民族主義者が度々台頭する。権力者は、自分の国はすばらしい、自分の国民はすばらしい、それに比べて外国や外国人はこんなにおかしい、ということを宣伝する。そして国の中の問題を目立たないようにさせることがよくある。そしてそんな外国や外国人の悪口を言うことで、自分達は特別なのだ、自分達こそ正統な国民なのだ、というような気になる。そうして外国人や混血の人達を差別して除け者にしていく。
この時代のイスラエルもそんなことになっていたんじゃないかと思う。補囚の地で50年も過ごすと、きっと混血の人達もいただろう。いろんな理由でユダヤ人と共に移住して来た人達もいたんだろうと思う。いろいろな民族の人達がいると、自分達こそ純粋な正統なユダヤ人なんだ、と言い出す人たちが現れても不思議ではないという気がする。自分達の宗教を守るためには、エズラやネヘミヤがしたように、純粋さを求めた方がすっきりするしはっきりもするだろうと思うし、生まれながらの傷のないユダヤ人なんてことになると、それは目に見える動かしがたいものであって自分達こそ特別なんだという優越感と特権意識を持つことが出来るように思う。
すべての民の
しかしイザヤはそれとは全く反対のことを言っている。
宦官も異邦人も、安息日を守り神の契約を守るならば受け入れる、彼らも神の民だ、と言っている。それまでのことを考えると、この言葉はかなり過激な言葉だ。神を信じる者、神の言葉に従う者はみな神の民だ、見た目や民族は関係ないということだ。
ユダヤ人だけ、身体に傷のない者だけが神の民だ、と主張していた人達も恐らくただの意地悪で他の人達を除け者にしていたわけではないのだろうと思う。昔からそうだったんだからとか、申命記にこう書いてあるからというような真面目な理由からそう言っていた人たちが多かったんだろうと思う。真面目にしきたりを守って、真面目に律法を守っていたんだろうと思う。でもそれはやがて律法の字面を守るようなことになっていたんじゃないかなと思う。神の意志よりも律法の字面に従うようになっていたのかもしれないと思う。
しきたりだからとか、そう書いてあるから、というだけで、それを押し通そうとすると、本当に大事なことが見えなくなってしまって、そこにいる人間、そこにいる人間の心も見えなくなってしまっていたんじゃないかと思う。
今の教会はどうなんだろうか。いちいち面倒なことを言う人じゃなくて、素直に言うことを聞いてくれるような人に来て欲しいなんて思う。そしていっぱい献金して毎週礼拝に来て、文句も言わずいろいろ奉仕して助けてくれる人が来て欲しいなんて思ったり、有名人が教会員になってくれたらいいのになんてことも思ったりする。そんなこと思っているから誰も来ないのかな。
7節に、「わたしの家は、すべての人の祈りの家と呼ばれる」と書かれている。教会も祈ろうとするすべての人の家なのだと思う。すべての人の帰るべき家でありたいと思う。いろんな問題を抱えて苦労して生きている人や、社会に居場所を見つけられないで探し求めている人、神に祈り求めるしかないような人、そんな人達の祈りの家でありたいと願っている。
主の晩餐の時に、今はぶどうジュースを小さな杯で配っている。イエスは皆この杯から飲め、と言われているのでもともとは一つの杯から飲んだんだと思う。日本の教会で別々に配るようになったのは、ある教会に部落の人がいてその人と同じ杯で飲みたくないということになって別々にして、やがてそれが定着したと聞いたことがある。衛生面からそうしていると聞いたこともあるけれど、本当の理由は差別的なところにあるのかもしれない。その真偽は定かではないけれど、でもそういう人を差別する気持ちがやっぱり自分の中にもないわけではない。悲しいけれどやっぱりある。
また聖書に否定的に書かれているからということで、同性愛の人を罪人だと言って排除してきた。聖書をどう読むか、というのは難しい問題だけれど、ここにすべての民の、と書かれていることはもっと大事にしないといけないと思う。
今日の箇所では「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」と言われている。かつての律法と全く真逆のことをイザヤはどうして言えたのだろうかと思う。律法に書いてあるからと言って区別した方が簡単だったんじゃないかと思う。しかしイザヤは現実にそこに生きる人達、苦しみや悲しみを持って生きている人達を見て、そこから神の意志を改めて尋ね求めたんじゃないかと思う。そこで感じとった神の思い、それが宦官も異邦人も自分の民だというものだったのだろうと思う。
イザヤは、ただ神に祈る者、神に祈り求める者、それこそが神の民なのだと告げている。立派になにかを成し遂げる、正しく間違いなく生きる、そうすることで初めて神の民に加えてもらえるのではないということだ。間違いも失敗もするしいろんな問題を抱えて生きている、けれども神に祈り神に求める者、どうにもできないでただ神に祈るしかない者、そんな人はすべて神の民、神の家の住人だというのだ。
末席を汚す
なんとなく自分は純粋なユダヤ人の側にいてみんなを入れてやる側にいるような気持ちでいるけれど、本当は自分こそ、そういうことで入れて貰った側かもしれない、きっとそうなんだろうという気がしてきた。
もともと資格も素質もないし、けれどあなたも神の民だと言われて加えて貰ったひとりなのだと思う。自分は信仰も薄いし能力もないし何も出来てないし何かをしようという気力もないなあとよく嘆いている。「主はご自分の民とわたしを区別される」とか「見よ、わたしは枯れ木にすぎない」というのはまさに自分の言葉だなあと思う。でもそんなあなたも神の民なのだとイザヤに言われているような気がしている。
こんな自分なのに迎えてくれている、この自分を迎えてくれている、ということだ。私も神の民の一員だ、なんて偉そうに言えないけれど、神の国の末席を汚していけることを感謝して、これからも神の言葉を聞き続けていきたいと思う。