礼拝メッセージより
背景
この詩編はイザヤを精神的郷里としているという説明があった。紀元前701年、南ユダ王国の首都エルサレムは、北にあったアッシリアのセンナケリブの大軍に包囲されて、陥落寸前に状態にあった。エルサレムの住民は右往左往して動揺するばかりだった。その時イザヤはこう言って王や民を励ました。
「まことに、イスラエルの聖なる方/わが主なる神は、こう言われた。「お前たちは、立ち帰って/静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」と。」(イザヤ書30章15節)
実際にはエルサレムの人達はイザヤの言うことを信じられなかったらしいが、アッシリア軍にペストが流行して撤退し、その後アッシリアにクーデターが起こりセンナケリブ王が暗殺され、そんなことからエルサレムは奇跡的に救われることになったそうだ。
激動
そんな経験も踏まえて、2節にあるように「神こそわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦、必ずそこにいまして助けてくださる。」と言う。そして3節の最初には原文は「それゆえ」という言葉があるそうだ。「それゆえ、わたしたちは決して恐れない、地が姿を変え、山々が揺らいで海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも。」と言う。
たとえ天変地異があったとしても避けどころである神がいる、砦である神が必ず共にいて助けてくれる、だから決して恐れないという訳だ。
アッシリアに包囲された時、エルサレムの人達はどうやればアッシリアに対抗できるかと考え、大丈夫だろうかと心配しうろたえていたようだ。そして神を忘れ、神に頼ることを忘れてしまっていたらしい。
人生には災害だけではなく、病気や挫折やいろんな苦難がある。思わぬことが突然起こってくると私たちも、どうしようどうしようとあわてふためいてしまって何も手につかなくなったり、いろんな心配や不安で一杯になって夜も眠れなくなってしまうこともあるのではないか。
静まれ
11節に「力を捨てよ、知れ、私は神。」とある。口語訳では「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」と訳している。新改訳では「やめよ。知れ。わたしこそ神。」となっているそうだ。そのように新共同訳聖書の「力を捨てよ」という言葉は、やめよとか静まれとも訳していて、空っぽになるという意味らしい。
つまり、どうしようどうしようという思い、大変だ大変だという思い、そう思うこともやめて心を空っぽにして、またじたばたすることもやめて、静まれということのようだ。
静まれ、そして神である私を見よ、と言われているようだ。
ちょっと思い出すのはアポロ13号の事故の時の話し。月に向かっていた宇宙船の水素だか酸素だかのタンクが爆発してしまって、乗組員は地球に戻ることができるのかどうか、要するに生き残れるかどうかという瀬戸際に立たされてしまう。その時に地球にいるNASAのそれぞれの担当者に対して、30代の飛行主任がまず言ったのが、「みんな冷静を保とう、そして問題に対処しよう。」ということだった。
何か思わぬことが起こると、どうしようどうしようと思って心臓がバクバクして何も手につかなくなったり、おかしなことをしてしまったりすることが多い。
でもそんな時こそ、静まれ、そして私を見よ、神はそう言われているのだろうと思う。私が着いているから落ち着きなさい、冷静になってから次の対処を考えなさい、先ずは静まりなさい、神様はそう言っているのではないかと思う。
神はわが櫓
♪神はわがやぐら♪という讃美歌がある。宗教改革で有名なマルチン・ルターが作った讃美歌だそうだ。ルターは今日の詩編46編が好きだったそうで、その詩編からこの讃美歌ができたようだ。
宗教改革者ということで意志が強く人かとと思っていたけれど、当時の教会から破門されたり、命の危険があったりしていろんな困難なことがあって、悩んで落ち込むようなこともあったそうだ。ある時ルターの妻は暗い顔をしているルターを見かねて、喪服を着て「神は死にました。あなたの顔を見ているとそうとしか思えない。」というようなことを言ったそうだ。それ程にルターは思い悩んでいたのだろう。結構思い詰めて心配して悩むような面があったようだ。でもそんな中でルターは今日の詩編に慰められ力付けられてきたようだ。いっぱい悩みいっぱい心配しつつ、その度に神を見上げて自分の信念を貫くことが出来たんだろうと思う。
セラ
4節と8節と12節の下の方にセラと書いてある。どうやらこれは休む合図だそうだ。もともと詩編は歌だったらしいけれど、そこで間があったということのようだ。
どんな歌だったか知るよしもないけれど、私たちが今聖書を読むときも、そこで間を取ることが大事なんだろうと思う。
今読んだ聖書の言葉をもう一度噛みしめる時間、思い巡らす時間が大事なんだろうと思う。
聖書読んでも、本当なんだろうかとか信じられないとか、そんなこと出来ないとか、あの人にこそ聞かせたいとか、あるいはここはこういう意味に違いないとか、自分なりにすぐに答えを出したりすぐに分かったような気になったりということも多い。けれど、静まって、そして心を空っぽにして、聖書の言葉を聞くことが大事なんだろうなと思う。
そして何よりも神がここにいてくれていること、いつも一緒にいてくれていることを感じることが大事なのだろう。
先週も言ったけれど、「私たちは考えすぎるが、感じ足りない」(チャーリー・チャップリン)ような気がする。
静まって私に聞きなさい、私を感じなさい、神はそう言われているのではないか。