礼拝メッセージより
大水
子供のころから思っているんだけど、そしてこの前の大雨の時にも思ったけれど、これだけの水がよく空に浮いているよなと思った。水蒸気となって空で冷やされて氷や水になって降ってくる、と理屈としてはなんとなくわかる気はするけど、大雨が降るたびに、これだけのものがよく浮いているよなあと思う。
昔々、聖書が書かれた時代、ユダヤの人たちは、天地が創造される以前は深淵、つまり原始の大きな海があり、その水を神が上の水と下の水に分けたことで、その間に空が出来たと考えていたそうだ。そして下の水を一カ所に集めたことで海となり、それで乾いたところができて地上となったと考えていた。大空にはドームのような屋根があって、その上にも水があって、その窓から雨が降ると考えていたそうだ。そこで創世記1章6節では「神は言われた。水の中に大空あれ。水と水をわけよ。」というようなことが書かれているみたいだ。
星もその大空にあって地球の周りを回っていると考えられていたようだ。
今日の詩編8編では、4節に「あなたの天を、あなたの指の業を わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。」と書かれている。創世記には神が天と地を造ったと書かれている。そしてここでは月も星も神が配置したと書かれている。
似たようなイメージは詩編19編にもある。
19:2 天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。
19:3 昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。
19:4 話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても
19:5 その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。
なんかかっこいいなあと思っていた。なんだかとても雄大で荘厳で。自然の中には神秘的なものが満ちていて、神の息吹みたいなものがあるのだ、とそう思うとなんかすごいなと思っていた。
でも多分当時の人の宇宙観というのは地球とその少し外側位しかなかったんじゃないかなと思う。
僕は小学校の頃から天体に興味があって、そんな本も少し読んだ。宇宙はえらく大きくて何万光年や何億光年の彼方にも星があって、例えば何万光年先にある星を見ている時は、何万年も前にその星を出た光を今見ている、つまり今見ている星の姿は今の姿じゃなくて、何万年も前の星の姿なんだ、なんてことが書いてあってすごいなあと感心していた。
でもでかすぎてイメージできない。太陽系の星がどれ位離れているのかと思って、地球の直径を1mmとして計算して教会堂の壁に貼っている。太陽の直径が10cm位で水星も金星も1mmもない。太陽から地球までは11mくらい離れていた。太陽から地球までは光でも8分余りかかるそうだけれど、この太陽系のある天の川銀河は直径が10万光年くらいだそうで、光でも端から端まで行くのに10万年かかる。その中に光る星が2500億個くらいあるそうだ。さらに宇宙にはそんな銀河が2兆個くらいあって、百数十億光年遠くにある銀河もあるそうだ。
どんだけ遠いのか全然イメージもできなくて頭がクラクラしてきそうだ。そんな宇宙が青空の向こうに広がっていると思うとすごいなと思うし、ときどき恐いなと思う時もある。
昔、小学生の時だったと思うけれど、夜中に目が覚めて、宇宙ってでかいんだなんて考えていたら、なんだか急に恐くなってしまったことがあった。宇宙があまりに大きすぎて恐いって感じがした。暗い宇宙の中にひとりぽつんと浮いているような気になってきて、そうするとすごく寂しくて恐いと思ったことがあった。果てしのないところで、行く当てもない、逃げるところもない、ただ浮かんでいるだけのような感じがしてすごく怖かった。怖くてしばらく膝を抱えていた。
それでも相変わらず宇宙に関するテレビなんかは今でも好きで、そういうのがあると大概ビデオにとって見ている。
でも、そんな宇宙に関する本やテレビを見ても、そこに神は登場しない。創世記では初っぱなから、天地は神が創ったと語っている。今日の詩編でも全部神が創って、神の御名は全知に満ちていると言っている。
でも実際は自然を見ても、神の姿が見えるわけではない。宇宙をいくら調べても神の姿を直接見ることはできない。何億光年という遠くの星を見ることができる望遠鏡もあるが、それで神の姿を見ることはできない。どうやら神は見えない。自然の中に直接神の姿をみることは出来ない。
神はいるか
ならば神はいないのだろうか。もし神がいなければ、この宇宙の中で神がいなければ、独りぼっちで暗い宇宙にぽかんと浮かんでいるようなものじゃないかと思う。
人間は神を求める生き物ではないかと思う。地球上のあらゆる民族が祈っているんじゃないかと思う。日本は無宗教という人が多いと聞くけれど、その割には多くの店の中には神棚があったりお札を貼ってあったりする。大きな会社では屋上に社があったりもする。車でもお守りをかけてたり貼ってあったりするのをよく見る。人間ってどこか祈らないではいられない生き物じゃないかと思う。そうしないと宇宙で独りぼっちになってしまいそうな怖れをもともと持っているんじゃないか。誰かにくっついていないと、捕まっていないと、あるいはつかんでもらっていないと安心できない、そんな畏れを誰もが持っているじゃないかと思う。
聖書を書いた人は、神がいるかどうかなんて考えもしないで、いるのが当たり前だと思っているようだ。そして神とは天地を作った、この世のもの全部を創造したそういう神だと言っている。そしてその天地を創った神なのに、この小さな自分を御心に留めてくれている、自分のことをしっかりと見つめてくれている、気にかけてくれている、心配してくれている、と言っている。
見えないものを
創世記の創造物語も同じようなことを言おうとしているのだと思う。天地創造が創世記の字面通りに行われた、科学的にも聖書に書いているとおりなんだ、ということを言いたいのではなくて、人間は神との関係の中で造られ、神との関係の中で生きていくものなのだということを言おうとしているのだと思う。
科学によっていろんなことが解明されてきた。水がどんな動きをしているのかも分かってきている。宇宙の始めも地球のできかたもだんだんと解明されてきている。科学はそんな見えるところの現象をどんどん解明してきた。
でも神は見えないところにいる。私たちは見えない神の手の中に生きている。そして神は見えない私たちの心の中にもいてくれる。
大切なものは見えない、と星の王子さまが言ったそうだけれど、その通りだと思う。命そのものも見えない。心臓が動いていないというようなことで命がないという判断をするのだろうけれども、命そのものが見えるわけではない。命があるのとないのとどう違うのか、私にはよくわからないところがある。私たちは今自分の命があると思っているが、この命がなくなる瞬間何が変わるのだろうか。顔も手も足もそのままある。心臓も肺も内臓も全部そこにある。それが止まったとき命はどうなるのか、どこに行くのか、消えるのか。よく分からない。
そんな見えないものがいっぱいある。喜びも楽しみも愛も、悲しみも憎しみも見えないものだ。見えないものによって私たちは生きている。確かに科学は見えるものをいろいろと解明してくれている。しかし私たちは見えるものだけで生きているのではない。大事なものは結構見えない。食べ物は見える、けれども命も愛も見えない。
そして神も見えない。しかし聖書は、神は見えないところで私たちと関わってくれている、見えないところで私たち人間が生きていけるように準備してくれている、見えないところで私たちひとりひとりを支えてくれている、愛してくれている、と言うのだ。8:5にあるように、天地を創ったその神なのに、私たちをみ心に留めてくれている、気遣ってくれている、顧みてくれているというのだ。
感じてごらん
「私たちは考えすぎるが、感じ足りない。」(チャーリー・チャップリン)
神を信じるとは、私たちを心に留め、心配し、気遣い、愛している、その神の思いを知ることなんだろうと思う。そして大事なのはその神の思いを感じることなんじゃないかなと思う。愛されているという理屈を理解することよりも、愛を感じることこそが大事なんだろうなと思う。
人間ってのはそんな自分のことを気遣ってくれる、愛してくれる、そんな相手との関係が必要な生き物だと思う。そしてこの聖書の神はまさにそんな相手なのだと言っている。そしてこの神の愛を、神の思いを感じてごらん、聖書は私たちにそう語りかけているように思う。