礼拝メッセージより
後悔
人生は選択の連続だと思います。どの学校に行くか、どこの会社に入るかとか、あるいは誰と結婚するかとか、あるいは今日のテレビは何を見るか、夕食は何を食べるかなんてことも含めると、大なり小なり毎日毎日選択して生きています。
ところで、誰だったか忘れましたが、選択の後には必ず後悔する、というようなことを言っていた偉い人がいて、それを見たときにすごく納得した記憶があります。どっちにしたらいいのか真剣に迷うような時に、正しい方を選ばないと後悔するに違いない、何とかしてそっちを選ばないと、なんて思ってなかなか選べないことがあります。そして片方に決めた後にも、やっぱりあっちの方が良かったんんじゃないか、間違ってたんじゃないかといつまでもうじうじするなんてこともよくあります。
でも選択した後には必ず後悔すると聞いてから、後悔するのが当たり前なんだから後悔することを恐れても仕方ない、必ず後悔するんだから後悔しない方を選択するんじゃなくて、それよりも自分が好きな方、やりたい方、正しいと思う方を選べばいいんだと思うようになってきました。それまではいつまでもうじうじと選べないということが多かったですが、うじうじする時間が少しは減ってきたような気がしてます。
当然後悔はいろいろとあって、あの時ああしておけば良かった、こうしておけば良かった、そうしたらこうはならなかったんじゃないか、そうしたら幸せになっていたんじゃないか、そう思うことはいろいろとあるわけです。
今日は詩編の1編を読みましたが、その一番最初の言葉は、「いかに幸いなことか」でした。自分は幸せだと思える人こそが幸いだと思うのですが、実際は自分が幸いだと思えないことが多いような気もします。あの時こうだったから、ああだったから幸せになれていないのだという後悔する思いがいっぱいあるんじゃないかと思います。あの時もっと頑張っていたら、あの時あれを続けていたら、今頃は違う幸せな自分になっていたんじゃないかなんて思ってしまいます。
何かが違っていたらもっと幸せになれたはずなのに、今はあまり幸せではない、幸せになれていない、という思いになることが多いんじゃないでしょうか。
今
今日のこの詩編1編は、幸いなこととして、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人、だと言っています。
これはみんな今のことを言っていると思います。今からできることを言っていると思います。今からすぐにできることなんじゃないかと思います。
財産をいっぱい持って、友だちをいっぱい持つことが幸せだなんて言われても、そんなことすぐにできるわけではないというか、一生かかってもできそうにないですが、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむことなら、今からしようと思えばすぐにできることだと思います。
方法
幸いな人は、流れのほとりに植えられた木のようであり、神に逆らう人は、要するに幸いでない人はってことでしょうが、風に吹き飛ばされるもみ殻のようだと言います。
こういうのを聞くと、どうせ自分はもみ殻だってすぐに思ってしまっていました。主の教えを愛し、昼も夜も口ずさむ、なんて全然できてない、どうせ自分はそんなことできない駄目な人間なんだというふうに思ってしまいます。
でもここはそんなことを言っているわけではないようです。お前は幸いなのか、幸いじゃないのかと問いつめているわけではないような気がします。
そうではなく、幸いであるためにはこうすればいいんだ、という方法、幸いになる方法を伝えているじゃないかという風な気がしています。幸いでない者を責めているのではなくて、幸いになりなさいと勧めている、幸いになるように招いている言葉なんじゃないかと思います。そのためにはこうすればいいんだ、という方法を教えてくれているんだろうと思います。
聞いてごらん
主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむこと、それが幸せとなる方法だと言っています。
口ずさむという言葉は、想うというふうにも訳される言葉みたいなので、四六時中ぶつぶつ言っているということではないようですが、主の教えを、つまり神の言葉を常に想っていること、それが幸いなのだから、だからそうしたらいいですよ、と教えてくれているというなんだろうと想います。
最近smileという歌に惹かれています。チャップリンのモダン・タイムスという映画の中の曲に後から歌詞がつけられてナット・キング・コールが唄った歌だそうです。
"Smile though your heart is aching
Smile even though it's breaking
When there are clouds in the sky, you'll get by"
・・・・・
『笑ってごらん、心が痛んでいたとしたも、壊れていたとしても、
・・・人生に価値があることがわかるさ、笑うだけで』
というような内容の歌です。
今日の詩編は、聞いてごらん神の言葉を、神の言葉をいつも思い返してごらん、それこそが幸いの素なのだ、そう言っているように思います。
イザヤ書には、あなたは高価で尊い、という言葉があります。イエスも、自分にはなんの価値もない、駄目な人間だと思っている人に向かって、あなたが大切なのだ、愛している、あなたには価値がある、駄目な人間なんかじゃない、そう繰り返し語りかけています。
聖書はそんな神の言葉、愛の言葉が詰まっているようです。神様からのラヴレターのような気がしています。ラヴレターならばラヴレターとして読めばいいんだろうと思います。神様の言葉を、その中に込められている思いを聞いていくことが大事なんだと思います。
そんな神の言葉を聞いてごらん、繰り返し聞いてごらん、いつもいつも聞いてごらん、そこに幸せがあるんだよ、この詩編は私たちにそう語りかけているのではないでしょうか。