礼拝メッセージより
サムソン
ロバの顎の骨をふり回してペリシテ人1000人を殴り殺したサムソン。
次にサムソンはガザに行き、そこで遊女を見つける。そこをペリシテ人が夜襲をかけようとしたが、サムソンは町の門と扉と両脇の門柱をひき抜いて山の上まで持っていったしまう。
サムソンは、今度はソレクの谷に住む美女デリラに惚れてしまう。ペリシテ人はデリラを買収して色仕掛けでサムソンの弱点を聞き出させてサムソンを捕まえようとする。
「あなたの怪力がどこに秘められているのか、教えて下さい。あなたを縛り上げて苦しめるにはどうすればいいのでしょう。」勿論もっともっと甘い言い方と甘い声だったに違いないと思うけれど。「乾いていない新しい7本の弓弦で縛ればいい」と「まだ一度も使ったことのない新しい縄でしっかりと縛れば」、「わたしの髪の毛七房を機の縦糸と共に織り込めば」などと適当に嘘をついていた。
それでもひるまず何度も聞いてくるデリラに耐えきれずになのか、それ以上ウソを繰り返して嫌われたら困ると思ったのか、遂に自分は母の胎内にいたときからナジル人であり、髪の毛を剃られたら弱くなると本当のことを告げてしまう。デリラの膝枕で寝ている時にサムソンは髪の毛をそられ、ペリシテ人に捕らわれてしまう、という所からが今日の聖書の箇所である。
両目を潰され、鎖に繋がれて石臼を轢かされるサムソン、やっとこれで一安心のペリシテ人は宴会の余興に彼をさらし者にして楽しもうとする。ところが監禁されている間に彼の髪は伸びていた。随分長い間監禁してたらしい。「神よ、今一度だけ私に力を与え、復讐をさせて下さい」、渾身の力で神殿の柱を押すサムソン、巨大な石の神殿は、3000人のペリシテ人、デリラ、そしてサムソン本人を飲み込んで音を立てて崩れ落ちた。
サムソンは20年間、士師としてイスラエルを裁いたと書かれているが、実際にはしたことは、時々頭にきてペリシテ人を殺したことのようだ。そのサムソンの力を恐れたペリシテが攻めてこなかったことでイスラエルが守られた20年間ということだったようだ。
力
髪がなくなれば力がなくなり、髪が伸びればまた力が甦ってくる、なんてまるでおとぎ話みたいだなと思う。
神は細部に宿るという言葉があるけれど、まるで神は髪に宿る、とでも言いたげだ。サムソンも単純に髪を剃れば力がなくなると思っていたんだろうけれど、でも聖書ではサムソンが力を発揮するときには「主の霊が激しく彼に降り」と書かれていて、今日の所でも20節に「主が彼を離れられたことには気づいていなかった」と書いてある。髪の毛があるからというよりも主の力がサムソンに降ったことで力を発揮した、神が放れたので力がなくなったと言っているようだ。勿論髪のないサムソンを神はお気に入りではないということなのかもしれないけれど。
力はどこから
最後に自分の命を省みずペリシテ人を殺したときには神に祈ったと書かれている。髪が伸び始めたから力が戻ってきたようなことも書いてはいるけれど、やっぱりサムソンの最後の力はそこで神に祈ることで与えられたものだろうと思う。
怪力というものを与えられて生まれてきたサムソンだった。その力で自分の気に入らない者たちをやっつけてきたり、鬱憤を晴らしてきた。でもその力をなくしたとき、サムソンは初めてまともに祈っているようだ。なくして初めてその大切さに気付くなんてことが本当に多いけれど、サムソンもそうだったんじゃないかと思う。自分の力は自分のものと思っていたサムソンが、実は自分の力は自分のものというよりも神から与えられたものであったということを知ったということなんじゃないかなと思う。
その祈りに応えて神は力を与えたのだろうし、その力は髪にあったのではなく、神から与えられていたということなんだろうと思う。
サムソンは怪力を持っていることで、その怪力を武器に思いのままに生きてきたんじゃないかと思う。その力そのものを頼みとして生きてきたんだろうと思う。しかしその力をなくし、今まで当たり前にできていたことができなくなり、簡単にやっつけていた敵にやっつけられてしまった。サムソンは力と一緒に生きる希望もなくしてしまったに違いないと思う。
でもそこでサムソンは祈った。力に頼むのではなく神に頼った、力ではなく力を与える神に頼った、そして神はそれに応えたということなんだろろうと思う。
私たちも自分の持っている力や才能を誇り、自慢し、時にそれを振り回してしまう。しかしまたその力をなくし、誇るものも何もなくなり、すっからかんになることもある。そして生きる力も希望もなくすようなこともある。
しかしそんな時でも私たちは神に祈ることができる。そんな時でも神は共にいてくれていること、祈りを聞いてくれていること、そのことを教えてくれているのではないかと思う。
そして力も才能も実は自分の持ち物というよりも神に与えられるものだ。神が持っているものだ。だから私たち自身が何をどれだけ持っているかが問題ではない。問題は神に繋がっているかどうか、神に祈れるかどうかだ。たとえ私たちが空っぽだとしても神に繋がっていれば、必要であればその都度もらえばいいんだから。