礼拝メッセージより
ナジル人
『ナジル人(ナジルびと)とは、聖書に登場する、自ら志願して、あるいは神の任命を受けることによって、特別な誓約を神に捧げた者のことである。実名で知られている者としてはサムソンが挙げられるが、他にも大勢のナジル人が存在したことを聖書は示している。また、サムエルもナジル人であったとする意見もある。』(ウィキペディア)
具体的には旧約聖書の民数記6章にナジル人について書かれている。
それによるとぶどう酒や濃い酒を飲んではいけないとか、頭にかみそりを当ててはいけないとか、死体に近づいてはいけないというような決まりがあった。
特別の誓願を立てて一定の期間ナジル人になると書かれていて、その間はこのような決まりを守るようにとされている。
サムソン
今日登場するサムソンは自分の意志でナジル人となったのではなく、また決まった期間だけなるのではなく、生まれる前から死ぬ日までナジル人としてささげられていると言われている。
サムソンが生まれた頃は、1節にあるようにイスラエルの民が主の目に悪とされることをしてペリシテ人に支配されていた時期だったようだ。民が神から離れることで苦難に遭う、しかしそこで神が士師を立てて民を救う、というのが士師記のお決まりのパターンだそうで、今回もその例にならっているみたいだ。
ペリシテというのはパレスチナ地方の地中海の海岸沿いの地域で、すこに住むペリシテ人は、旧約聖書の中ではイスラエルに敵対する民として度々登場する。パレスチナという言葉はペリシテから来ているそうだけれど、現代のパレスチナ人は聖書のペリシテ人とは関係ないそうだ。
受胎告知
サムソンは、イスラエルの12部族の一つであるダン族に属するツォルア出身のマノアという一人の男と妻の間に生まれた。マノアの妻は聖書には名前も出てこないけれど、その妻は不妊の女だったと書かれているが、その妻に天使が男の子の誕生を告げる。
不妊の女性に天使が子どもの誕生を告げるというのは聖書によく出てくる。旧約時代には子どもを産むということが神からの祝福の証しというように考えられていたようで、不妊であるということは逆に神に祝福されていない夫婦と考えられて、悲しい辛い思いを強いられていたようだ。不妊の女性が神に祝福されてないなんてことは何の根拠もないことだと思うけれど、不妊の女性が聖書によく登場するのは、そんな謂われなき理不尽な苦しみを負わされている人たちのことを神は見捨ててはいないし、逆に注目しているということを伝えているのかなという気がしている。
今回の話しは、その子は生まれる前からナジル人として神にささげられているから頭にかみそりと当ててはいけない、そしてその子を産む母親もぶどう酒や強い飲み物も飲まず、汚れた物も食べないように、彼はペリシテ人の手からイスラエルを解放する救いの先駆者となるだろう、というものだった。ぶどう酒や強い酒を飲まないとか汚れた物を食べないというのはナジル人となる本人の戒めだけれど、ここではナジル人を身ごもる母親もナジル人と同じ戒めを守るようにと言われている。
妻は夫のマノアにそのことを話し、夫はもう一度御使いを遣わしてくれるようにと神に祈った。すると御使いがもう一度現れて、妻に告げた決まりを守るようにと告げた。マノアは献げ物をもって御使いをもてなそうとしたとういうのが19節以下の話しになる。
神を見た者は死んでしまうという考えが旧約聖書の中には度々出てくるが、マノアも自分達が神を見てしまったから死んでしまうと言うけれども、妻の方は、自分達を死なせようという積もりなら、自分達の献げ物を受け取ったということと、子どもの誕生を告げに来たりはしないだろうと答えた。それが今日の話しだ。
見えないものに
一体ここで聖書は何を言いたいのだろうか。この箇所から何を感じとれば良いんだろうか、と思う。無理に何かを感じとる必要はないのかもしれないとも思いつつ。
マノアは相手が主の御使いであることが解った途端に、神を見てしまったから死んでしまうとうろたえているようだ。神ではなくて御使いを見たんじゃないのかなと思うけれど。どっちにしてもマノアは神を見てしまったということで、それまでの経過もなにもかもが吹き飛んでしまっているみたいだ。
一方妻の方は、神を見てしまったということよりも、御使いが自分達に語ったことやその状況の方を思い巡らしているみたいだ。女性の方が冷静に物事を見ているみたいだ。
御使いが自分の前に現れて神の計画を告げてくれたらいいなと思うこともあるけれども、未だかつてそんな経験は無い。神の計画とか神の導きは見えないから本当に解りづらい。一つ苦しいことに直面すると神はいないのか、神は見捨てたのかと思ってしまう。マノアのように目の前に起こっている事柄だけに捕らわれてしまって、それまでのことなどまるでなかったかのように思ってしまうこともあるのではないか。
マノアの妻のように、目の前の事柄だけに目を奪われるのではなくて、それまでのことがら、それまでの導きをしっかりと思い巡らして、その上で目の前に起きている事柄を見つめていくことが大切なのだと思う。
思うように行かないこと、願いどおりにいかないこと、願わないこと、そんな目の前のことがらに目を奪われてしまいがちだ。そして希望と無くし元気をなくしてしまいがちだ。僕は礼拝の人数が少ないと嘆いて落ち込んでしまうことも多い。あるいは失敗したり間違ったりするとそんな自分を責めてまた落ち込んでしまう。
でもそんなことにばかり目を奪われてしまうのではなくて、見えないけれども確かにある神の導き、神の守り、そして神の愛を見つめていたいと思う。自分の人生を振り返るような大きな目で見ると見えてくる、そんな見えない神の思いをしっかりと見つめていたいと思う。
神の計画も御手も導きも愛も、直接聞くことも出来ないし見えない。だから本当に解りづらい。私たちはそれまでの俯瞰的に見ることで、これまでのことを思い巡らすことで少しずつ見えてくるのではないかなと思う。
そして神の導きや計画や愛を見つめることで、私たちは希望を持って安心して生きていくことができるのだと思う。
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(コリントの信徒への手紙二 4:18)